1 功利主義

音楽のおしゃべりってのはおしゃべりの中でも最悪だ。こいつは、ちょっと売れてる何かを好きな人に、Girls AloudとかTake That!とかABBAとかのポップが好きな人に「後ろめたいけど好きなんだよね」って言わせる。俺はこのフレーズが嫌いだ。それは最高のポップにとって侮辱だ。それでもって、後ろめたさにとっても侮辱だ。

— ダラ・オブリエン(コメディアン)

1.1 功利主義:はじめに

いくつかの物事は、人々にとって直接的に良いことのように見えます。宝くじに当たったり、あなたの真に愛する人と結婚したり、必要な資格を取得したりすることは、どれも人の人生を改善する出来事の例のようです。規範的倫理の理論として功利主義は、私たちの将来の可能な行動のうちどれが私たちの人生の中で、そしてより一般に人々の人生の中でそのような良いことを促進するかを評価することによって、私たちは何が道徳的に正しく何が道徳的に間違っているかを判断できることを示唆しています。

1.2 快楽主義

快楽主義は福利の理論 — ある人生がその人生を生きる人にとってどれだけうまくいくかについての理論です。快楽主義と他の福利の理論とを区別しているのは、快楽主義者が、成功した人生を定義するものはその人生の喜びの量に直接関係していると信じているということです。その他の要素はまったく関係しません。したがって、ある人が自分の人生で経験する喜びが大きくなればなるほど、彼らの人生はより良くなり、逆もまた同様です。一方、他の理論は、人々が持っている欲望を達成すること、または友情や健康などの客観的なリストの物事に焦点を当てるかもしれません。

快楽主義のルーツは、少なくともエピクロス(紀元前341–270年)と古代ギリシャまでさかのぼることができます。エピクロスは、人にとっての本質的な良さとは喜びであるという快楽主義的な見解を持っていました。これは、喜びが、その喜びの原因や状況にかかわらず、常に人にとってそれ自体で良いことを意味します。この理論によれば、喜びは常に本質的に人にとって良いものであり、より少ない喜びは常に本質的に悪いものです。

快楽主義はあなたの人生をより良くするための比較的単純な理論です。もしあなたが、宝くじに当たったり、真に愛する人と結婚したり、必要な資格を取得した場合にはあなたの人生がより良くなるだろうと感じているとしたら、それらの判断の快楽主義的な説明とは、それらのことがあなたに喜びをもたらす場合にのみ、それらはあなたにとって良いものであるということです。多くの喜びは物理的なものかもしれませんが、フレッド・フェルドマン(1941年-)は、態度の快楽主義として知られる理論の擁護者です。この理論によれば、心理的な喜びはそれ自体で、人にとって本質的に良いものとしての価値があります。したがって、本を読むことは物理的方法で喜びを生み出すようには見えませんが、快楽主義者はその読書の行為に伴う心理的な喜びを評価し、それによって読書が人の福利を改善できることを受け入れます。この快楽主義的な喜びの理解は、たとえば、ある人がレディー・ガガのアルバムから非常に多くの喜びを得る一方、別の人が何も得ない理由を説明するのに役立つかもしれません。その音楽に対する心理的な反応が異なるのです。

1.3 ノージックの経験機械

快楽主義にとって重要な問題の1つは、私たちの福利は、私たちの人生の中における喜びの単なる総量以上のものによって影響を受けているように見えるということです。あなたは新しい資格を得ることを楽しむかもしれませんが、この出来事の価値は、単に生み出された喜びよりも多くのものがあるようです。意味のある資格を得ることに成功すれば、そのことからはなんの喜びが得られなくても人生が改善するということには、多くの人が同意します。確かに、多くの人は、快楽主義者がおそらく主張するように、あなたの人生を改善するものと喜びを与えるものとの関係は直接釣り合ってはいないと信じています。

ロバート・ノージック(1938–2002年)は、今では有名になった思考実験を通じて私たちの直観をテストすることにより、喜びが唯一の良いものであるという快楽主義的な考え方を攻撃しました。ノージックは尋ねます:

あなたが望むどのような経験でもあなたに与えてくれる経験機械があったと仮定してください。とてもすごい神経心理学者があなたの脳を刺激して、あたかもあなたが偉大な小説を書いたり、友人を作ったり、面白い本を読んだりしているように考えたり感じたりするようにします。その間ずっと、あなたはタンクの中に浮かんでいて、あなたの脳に電極が取り付けられています。あなたは、あなたの人生の経験を事前にプログラミングされた状態で、この機械に一生の間接続されていたいですか?[…]もちろん、タンクの中にいる間、あなたには自分がそこにいることは分かりません。あなたはすべてのことが実際に起こっていることだと思うでしょう[…]あなたはプラグインしますか?4

快楽主義に対するノージックの挑戦は、この可能な状況を考慮したほとんどの人がプラグインを選択しないだろうという考えに基づいています。確かに、もしあなたが自分自身に、事前にプログラミングされた存在のほうを取って、あなたの本当の友達、家族、人生を捨て去る選択を実際にするかどうかを問いかけるとしたら、経験機械にプラグインすることは望ましくないと結論づけるかもしれません。しかしながら、もし快楽主義が正しく、私たちの福利は、私たちが経験する喜びの量によって完全に決まるならば、「私たちの人生が内部からどう感じられるか以外に、一体何が私たちにとって重要なのか?」とノージックは疑問を呈します。5 この経験機械は私たちに喜びを保証してくれますが、喜びの保証からははるかに遠い現実の世界と比べても、私たちはそれのことを魅力的には思いません。これは、私たちの福利が、私たちが手に入れる喜びの量に加えて、おそらく知識や友情などの他の要素によって決定されることを示唆しているのかもしれません。

もちろん、快楽主義者はこの点において完全に引き下がる必要はありません。彼らは、経験機械が喜びの経験を保証するという理由だけで、経験機械のことを望ましいと感じるかもしれません。あるいは、あなたは、この機械についての私たちの疑念が誤っていると思うかもしれません。結局のところ、ひとたびこの機械の中に入れば、私たちは物事が本当ではないと疑うことはないでしょう。あなたは、快楽主義者が歯をくいしばって耐えて(つまり、この明らかに厄介な結論のことを、彼らの理論の致命的ではない含意として受け入れて)、その機械に入ることに対するいかなる躊躇も非合理的であると言うかもしれない、と感じるかもしれません。おそらく、その機械に接続することを選択した人の人生は、非常に良いものとなるでしょう!

1.4 ベンサムの功利主義の基盤

ジェレミー・ベンサム(1748–1832年)は「古典的功利主義者」の最初の1人でした。ベンサムは、社会改革に対する真の願望によって駆り立てられて、抽象的な哲学と同様に法律、政治、経済に関わることを望んでいました。

ベンサムは、第2節で説明した快楽主義的な思考のタイプを基礎として功利主義の道徳理論を発展させました。ベンサムにとって、人生の価値を決定する、あるいは実際には出来事や行動の価値を決定する唯一のものは、その人生に含まれる喜びの量、またはその出来事や行動の結果として生じる喜びの量です。ベンサムは快楽主義的な功利主義者です。しかしながら、快楽主義に対するこの信念は、ベンサムがなんの正当化もせずに、あるいは恣意的に取り上げたものではありませんでした。彼にとって快楽主義は、世界の中にある有利な証拠によって経験的に正当化され得るものでした。ベンサムによると:

自然は人類を2人の最高の主人、すなわち苦痛と喜びの統治下に置いた。私たちがするべきことを指し示し、私たちがしなければならないことを決定するのは、彼らだけである。6

ベンサムは、私たちの行動を導く要因についてのこの経験的な主張から、私たちがどのように生きるべきかについての規範的な主張へと移動します。彼は、より多くの喜びとより少ない苦痛をもたらすことに基づいて、道徳的な理論を作り出しています。

功利主義を最初に理解するときには、「効用」という用語が何を意味するのかを理解することもまた重要です。ベンサムは、効用のことを「どのようなものの中にもある特性であって、それにより有益さ、利益、喜び、良さ、幸福を生み出したり[…]あるいは、[…]損傷、苦痛、邪悪、不幸の発生を防ぐものである」7 として定義しました。したがって、喜びが促進され、不幸が回避されるときには効用が促進されます。快楽主義へのベンサムの傾倒は、彼にとっては、善とは喜びの増加に過ぎず、邪悪や不幸とは単に苦痛の増加や喜びの減少に過ぎないことを意味します。この効用の理解を念頭に置いた上で、ベンサムは効用の原理を表明します:

効用の原理とは、どんなものであれあらゆる行為のことを、利害が問題となっている当事者の幸福を増強または減少することになるように見える傾向に従って、あるいは同じことであるが言い換えれば、その幸福を促進するまたは阻害するように見える傾向に従って、承認または拒否する原理を意味する。8

実際のところ、この原理は単に、効用(喜びの観点から定義される)の促進は承認され、効用の減少は拒否されると言っているに過ぎません。

快楽主義への傾倒に裏打ちされた効用の原理は、ベンサムによってなされた功利主義の中心的な主張を支えるものです。彼が誤ってジョゼフ・プリーストリー(1733–1804年)に帰した言葉に基づいて、ベンサムは、正しいことと間違っていることの尺度とはある行動が最も多くの人々に最も大きな良さをもたらす度合いのことであると示唆しています。もちろん、ベンサムにとって、何が良いとみなされるかと言えば、喜びのことです。そこで私たちは、ベンサム自身が彼の基本的な公理と呼ぶものを、次のように言い換えることができます。それは、道徳的に行動するためには、最も多くの人々に最も大きな喜びをもたらすことを必要とするという要件です。

1.5 ベンサムの功利主義の構造

ベンサムの功利主義は、快楽主義的であることに加えて、また、

  1. 帰結主義的/目的論的
  2. 相対主義的
  3. 最大化
  4. 公平

でもあります。

ベンサムの功利主義は、帰結主義的です。なぜなら、ある行動や出来事の道徳的価値はその出来事の結果によって完全に決定されるためです。この理論は、同じ理由から目的論的なものとしても記述されています。この言葉は、「目的」または「目標」を意味するギリシャ語のテロス(telos)に基づいています。「行動B」ではなく「行動A」の結果としてより多くの喜びが生じる場合、功利主義の基本的な公理によれば、「行動A」が行われるべきであり、道徳的に正しいものです。「行動B」を選ぶことは道徳的に間違っているでしょう。

さらに、ベンサムの功利主義は、絶対主義的ではなく相対主義的です。絶対主義的な道徳観とは、文脈や結果にかかわらず、ある種の行動は常に道徳的に間違っていると考えます。たとえば、多くのキャンペーン団体は、拷問のことを、人々に恐怖を抱かせようとしている悪意のある独裁者によって行われるものであろうと、テロリストの攻撃を止めるために情報を入手しようとしている民主的に選出された政府によって許可されたものであろうと、常に道徳的に容認できないと示唆しています。絶対主義者にとって、拷問の行為はすべての場合とすべての状況において絶対的に間違っています。

明らかに、ベンサムはこの種の見解を抱くことはできません。なぜなら、拷問がテロリストの残虐行為を止める場合など、時には拷問に伴う苦痛が全体に対するより大きな喜び(またはより緩和された苦痛)の促進につながることがあるかもしれないからです。これに基づいて、ベンサム的な功利主義者は、ある種の行動が正しいか間違っているかは、その行動がとられる状況に常に関連していると信じなければなりません。

ベンサムの功利主義は、最大化するものです。なぜなら、それは単に喜びが促進されることを要求するだけでなく、最も多くの人の最も大きな喜びを確保することを要求するためです。これは、喜びにつながるいくつかの行為であっても、その状況の中でより多くの喜びをもたらしたかもしれない別の行為を拒絶して行われた場合には、道徳的に良い行為ではないことを意味します。たとえば、もしあなたが新しい本にお金を使うことから若干の喜びを得たとしても、そのお金がホームレスのための地元の慈善団体に寄付されたならば、より多くの喜びを生み出すことができたかもしれません。その時には、新しい本を買うことがいくらかの喜びをもたらすとしても、道徳的には間違っているでしょう。なぜなら、その行為は、その状況で可能だった喜びの総量を最大化しなかったためです。

最後に、ベンサムの功利主義は、そこで問題となるのは単純に最も多くの数の人々にとっての最も多くの量の喜びを確保することだけであるという意味で、公平でもあります。この理論は、その喜びの総量に対して、誰がそれにアクセスできるかや、誰がそれを分け合うかについて特別な選好を与えていません。ベンサムの功利主義理論は、利害についての平等な配慮という考え方に関連しています。喜びの総量が最大化される限りにおいて、王族、社長、兄弟姉妹、子供、友人または敵のうちの誰がその喜びを経験するかは問題とはなりません。喜びの総計の計算では、私たちの地位、行動または他の社会的要因にかかわらず、私たちはみな平等です。

1.6 快楽計算

ここまでの話で、ベンサムにとっては、どんな行動であっても喜びを生み出すという面での結果がその行動の道徳性を決定するものであり、他の要素は関連していない、ということが明らかになっていればうれしいです。しかしながら、特定の場面で何をすべきかに対して答えを出すために、私たちは実際のところどうすべきなのかについては明確ではありません。たとえば:

あなたは、戦闘機を操縦している空軍兵士であり、まだ正体のわからない人物によってハイジャックされたと思われる旅客機を迎撃しようとしています。飛行機は、空港に向かうか、あるいは潜在的には、非常に人口の多い大都市に直接向かうかのどちらとも受け取れる進路をとっているように見えます。あなたはどのように行動するかを決定する任務があり、したがって、飛行機にミサイルを発射するかどうかを選択しなければなりません。ミサイルを飛行機へ発射すれば、乗客を殺すものの地上のすべての命を救うことができるでしょう。一方、ミサイルを発射しなければ、乗客を救うことができるかもしれませんが、それは、罪のない人が大勢いる都市に飛行機が突っ込む前に乗客にほんの数分を与えるだけであり、結局のところ彼らは死ぬのかもしれません。このパイロットに対して、選択肢を比較評価し、最も多くの人に最も大きな喜びを確保する行動を選択するように提案することは、非常に多くの変数を持つとても困難な決断を下すにあたって、明らかに役に立ちません。

ベンサムは、功利主義が実際的な道徳理論となるためには、将来の行動に関連した喜びについての計算の問題に取り組む必要があることを認識していました。そのため、ベンサムは、異なる可能な行動によってどのくらいの喜びが生み出されるかに対して個人が答えを出すのを助けるために、快楽計算(時に幸福計算とも呼ばれます)を作り出しました。ベンサムによって示唆されているように、快楽計算は、以下の基準に従って可能な喜びを評価することに基づいています。

  1. 強度
  2. 期間
  3. 確実性
  4. 遠隔性(すなわち、その喜びがどれだけ遠くの未来にあるか)
  5. 肥沃さ(すなわち、その喜びが他の関連する喜びを生み出す可能性がどれだけ高いか)
  6. 純度(すなわち、その喜びに伴って何らかの苦痛が感じられるか)
  7. 範囲(すなわち、その喜びが何人の人で共有することができるか)9

そのため快楽計算は、道徳的に厄介な状況でどのように行動するかについて悩んでいる功利主義者のために、決定手続きを提供することになっています。したがって、私たちの戦闘機パイロットは、生き残る喜びの強度に対する死の苦痛の期間を考慮するとともに、これらの要因と別の可能な苦痛や喜びの相対的な確実性との間のバランスを取る必要があるかもしれません。間違いなく、この戦闘機のパイロットは依然として苦しい道徳的選択に直面するでしょうが、少なくとも彼は、功利主義が道徳的に彼に求めることに答えを出すための何らかの方法論を持っているようには見えます。

1.7 ベンサムの功利主義の問題点

しかしながら、いくつかの可能な行動をそれらに関連する「喜びの単位」の観点から測定することが実際に妥当性があるかどうかは、まだまだ未解決の問題であり、計算の問題は単に快楽計算の存在によって必ずしも解決されるとは限りません。あなたが満喫した最近の非常に楽しい経験を考えてみてください。そしてそれを、あなたの人生のもっと前の段階の非常に楽しい経験と比較してみましょう。あなたは、一方が他方よりもより大きな喜びを与えると自信をもって言えないかもしれません。もしそれらの経験が極端に異なる場合、たとえば、スポーツでトロフィーを勝ち取ることと最初の休日に行くこととの間などでは、特にそうです。本質的にまったく異なる喜びは、単純に比較できないかもしれません — それらは快楽計算のような共通の基準によっては測定できないかもしれません。

さらに、計算の問題は上記の問題点を超えて広がっていきます。ベンサムの功利主義は、ある種の行動の結果として喜びを得るすべての個人が喜びの総量として算入されるという意味で、公平であることを思い出してください。しかしながら、以下のケースでは、関連のある存在の問題が提起されています:

あなたは、あなたの町の現在の境界の外側にある空いている土地の一部において、新しい住宅開発を承認するかどうかを検討しています。もし承認したとすれば、その開発は新しい住民と建設労働者の両方に大きな量の喜びをもたらし、他人には苦痛を与えないことがあなたにとって明らかです。しかしながら、その開発ではアナグマを駆除し、現在は多くの鳥、野良猫、さまざまな種類のげっ歯類を育んでいる生息地を除去することが必要になります。

表面上では、この事例は功利主義者にとって特別な計算の問題なしに明白であるべきです。開発を進めることが許可されれば、最も多くの人に最も多くの良さが確保されます。しかしながら、これは、人間ではない動物が喜びと苦痛の計算に関連しないと仮定しています。しかし、もし喜びが、1つの生命がどれほどうまくいくかについて重要であるならば、なぜ動物が計算プロセスから除外されるべきなのかということは明確ではありません。動物も何らかの形の喜びを経験することができるかもしれませんし、ほとんど確実に苦痛を経験することができます。

確かに、ベンサムは、動物の道徳的価値を指すとき、次のように指摘しました:「(道徳的関連性を決定するための)質問とは、『彼らは論理的に考えることができるか?』や、『彼らは話すことができるか?』ではなく、『彼らは苦しむことができるか?』である。」10 もし人間の苦しみや痛みが道徳的な計算に関連するならば、人間以外の動物の苦しみや痛みもそうであるべきなのは、少なくとももっともらしいことであるのは確かです。(第14章で動物を食べることの道徳性を研究する際には、動物の道徳的な地位の問題についてもっと多くを取り上げます。)

功利主義は、最大化する倫理学理論であることによって、厳しい要求の異議にもさらされています。喜びは単に促進される必要があるだけではなく、すべての機会において実際に最大化される必要があるとしたならば、道徳的に行動するための基準は非常に高く設定されてしまいます。たとえば、あなたは今年のある時点でドーナツを買ったり、自分のために雑誌を買ったりしましたか?金遣いの荒い生活を送って、目的地まで歩くのではなくタクシーに乗ったりしましたか?あなたの行動は、確かにあなた自身とあなたの意思決定から経済的利益を得た人々に対して異なる程度の喜びをもたらしましたが、あなたはお金を節約し、極度の財政難に苦しむ人々や世界中で貧困の中に暮らすような人々にそのお金を届けることによって、より多くの喜びを生み出せるように思われます。最大化する道徳理論である結果として、功利主義は、私たちの行動に非常に厳しい要求をするので、不道徳を避けることを非常に難しくしているようです。

功利主義のもう1つの問題は、多数派の専制に関連します。功利主義は相対主義的な道徳理論であるため、絶対的な民主主義の権利や絶対的な法的権利、基本的人権などのような、絶対的な道徳を許容しないことを思い出してください。確かに、ベンサム自身は、「自然権」の考え方を、意味のあるものとして偽装された無意味な概念であるとして却下しました。しかしながら、もしベンサムが述べたように、絶対的権利は単に「大げさなナンセンス」であるということを受け入れるならば、功利主義は、喜びの総量を最大化するというより大きな良さのために多数派が少数派を搾取することが道徳的に必要とされるという事例を受け入れているように見えます。たとえば、もし小さな国の資源が強制的に取り上げられ、はるかに大きな国の人々によって自由に使用され搾取された場合に、喜びの総量が最大化されると想像してください(これは非現実的というわけではまったくありません)。しかしながら、このような強制的な盗難(大多数の人々が喜びを得られるという事実によってのみ正当化されたもの)は、道徳的に正当化されるようには思えません。しかし、功利主義の喜びを最大化するというコミットメントによれば、そのような行動は道徳的に受け入れられるだけでなく、道徳的に要求されるものとなるでしょう。

功利主義はまた、帰結主義的/目的論的な道徳理論として、誤った意図の問題にもさらされています。この問題は、ドミニクとコーラムのケースを考慮することにより強調することができます。

ドミニクがコーヒーショップで座っていると、1人の顔を覆った侵入者が強盗だと叫びながら飛び込んできました。ドミニクは人々の命を救うという意図をもって侵入者を止めようとしますが、悲しいことに、その後の取っ組み合いで侵入者の銃が誤って発砲され、1人の無実の人が殺されました。今度は、2番のケースを考えてみましょう。ここでも銃を持った侵入者が飛び込んできますが、コーラムは介入しようとするのではなく、すぐに自分の命を救う意図をもって身をかがめ、残りの客は自分で身を守るよう放っておきました。コーラムにとって幸いなことに、彼が身をかがめたときに、コーラムは偶然にも強盗未遂犯の足をつまづかせて、この犯人は転んで意識を失い、警察が到着するまで平和的に拘束することができました。

功利主義的な計算によると、コーラムは喜びを最大限にするように行動しましたが、ドミニクは誤って行動しました。なぜなら、彼の行動の結果が悲劇的な苦痛であったからです。しかしながら、コーラムが単に自分自身を救うことを意図していた時に、幸運な結果を得たことによってコーラムは正しく行動しており、ドミニクが他人を救うことを意図していた時に、不幸な結果となったことによってドミニクは誤って行動した、と示唆するのは、不公平であり間違っているように思えます。帰結主義的な理論としての功利主義は、意図を無視し、結果にのみ焦点を当てています。

功利主義はまた、えこひいきの問題にも直面します。これは、3人の他の人と一緒に救命いかだに乗り合わせたものの、2人分の消耗品しかないという、よく知られた道徳的なジレンマを考​​えれば明らかです。いかだにはあなたの他に、もし生存したとすれば癌の治療法を伝えることができると確信する医師、毎年何百万人もの人々に喜びをもたらす世界クラスのバイオリニスト、そしてあなたの両親か兄弟姉妹の1人がいます。この例での目的のために、残念ながらあなたの両親や兄弟姉妹は、いかだ上の他の人と比較して特別なものは何もない、とお知らせしておきます。このような状況では、功利主義は、いかだの上のあなた自身のスペースを放棄するだけでなく、あなたの両親や兄弟姉妹もあなたと一緒に凍える水の中に入る(助かる望みはありません)ことを要求するようです。このようなシナリオでは、これが喜びの総量を最大化する方法です。しかし、たとえ道徳性があなた自身の自己犠牲を求めているとあなたが信じているとしても、あなたの愛する人の命に追加の道徳的重みづけを与えるのをあなたに認めないのは、非常に不公平なようです。おそらく功利主義者にとって残念なことに、愛する家族としての地位は、どのように行動するかに関するあなたの判断に何らの特別な違いを生じさせるべきではありません。これは、過大な要求であるだけでなく、過度に冷たく計算高いように見えます。功利主義は行為主体-中立性を必要とします。あなたは、中立的な観察者のように状況を見なければならず、感情的な愛着に関係なく誰にも特別な優先度を与えてはいけません。なぜなら、それぞれの個人は1人として数えなければならず、決して1人以上として数えてはいけないからです。

最後に、ベンサムの功利主義はまた、バーナード・ウィリアムズ(1929–2003年)によって最も顕著に枠組みづけられた、功利主義に関連する、完全性の異議からの攻撃を受けています。行為主体に中立な理論として、潜在的な行動が家族や愛する人に及ぼす影響について判断する際に、いかなる人間も公平性を放棄することができません。さらに、ある行動が自分自身の感情、性格、そして一般的な完全性の感覚に及ぼす影響を判断する際にも、いかなる人間も公平性を放棄することができません。これに関連する潜在的な不安を明確にするために、ウィリアムズはジムとインディアンたちの架空のケースについて説明しています。11

ジムは探検家であり、20人の人間を処刑しようとしているインディアンのリーダーに出くわしました。ジムは、彼らが犯したかもしれない犯罪のことやその他の関連する要因については何も知りませんが、彼は、外国人旅行者に好印象を与えようとしているインディアンの首長から難しい選択を与えられました。ジムは、囚人の1人を彼自ら射殺して、残りの人をお祝いのしるしとして自由にすることができます。あるいは、彼は申し出を拒否することもできますが、その場合には20人の囚人全員が計画通りに処刑されます。ジムは、誰かと取引や交渉をすることはできず、すべての囚人を無事に解放するために武器を使用することもできないという意味で状況を支配していないことに注意しておくことが重要です。彼には目の前に置かれた2つの選択肢しかありません。

この例のポイントは、正しい行動とは何かを確立することではありません。あなたは、残りの人たちの命を救うためにジムは1人の囚人を撃たなければならないと示唆する功利主義者たちと合意するかもしれません。この例の目的は、むしろ、私たちがこの結論にあまりにも早く到達するように功利主義が強制してくるのを示すことです。行為主体-中立性へのコミットメントを考えると、ジムは自分自身のことを、最も多くの人に最も多くの良さを生み出す行動を見つけ出すような中立的な観察者として扱わなくてはなりません。道徳的には、彼は自分の感情に対して他人の感情に与えるよりも大きな重みを与える権利がないので、ジムが平和主義者であり、その生涯を通して囚人の矯正と社会復帰を支持してきた人であろうと、それは問題ではありません。もし功利主義の計算で、彼が囚人の1人を射殺しなければならないと示唆された場合、彼は自身の完全性とアイデンティティーに全く関係なく撃たなければなりません。あなたはこのことを、ひどい状況の不幸な結果として受け入れるかもしれませんが、もしある道徳的な理論が人の最も誠実で最も深い信念を認識したり尊重したりしないならば、それはその道徳的な理論にとっては問題かもしれません。

1.8 ミルの功利主義的な証明

ジョン・スチュアート・ミル(1806–1873年)は、ベンサムが提唱した功利主義の理論が直面する多くの問題を懸念していましたが、彼は快楽主義者として、理論が拒絶されるのを目にするのは望んでいませんでした。ミルは、快楽主義的な功利主義の成功したバージョンを作成するために、ベンサム的な功利主義理論を洗練し、改善しようと努めました。

ミルは、快楽主義的な功利主義のある1つのバージョンの見通しについてとても自信を持ってました。なぜなら、彼は、最も多くの人に対して最も大きな幸福/喜びが常に確保されるべきであるという原則を支持するために利用可能な、経験的に裏付けされた証明があると信じていたためです。12 ミルの証明は、ベンサムによる快楽主義の経験的な擁護と同様に、人々は自分の幸福を望むという観察からの証拠に依拠しています。この事実の観察は、人々が自分自身の幸福を望んでいるがために、そのような幸福が望ましいことの証拠だというミルの主張を支持します。ミルは「…各人の幸福はその人にとって良いことであり、一般的な幸福はすべての人の集団にとって良いことである」と述べています。13 私たちの幸福は私たちにとって良いものであり、一般的な幸福はすべての人の幸福の合計にすぎないので、一般的な幸福もまた良いものです。別の言い方をすれば、個々の幸福が追求するだけの価値があるならば、一般的な幸福は追求する価値があるに違いありません。

快楽主義を正当化するため、ミルは私たちの人生をより良くする唯一のものは幸福の良さであるという主張を正当化しようとしました。ミルは知識、健康、自由などは(人生をより良くするかもしれないと思われるような他の良いものと同様に)、それらが幸福をもたらす限りにおいてのみ価値があると示唆することによってこの主張を擁護しています。知識は、それを獲得したときに幸福をもたらすためだけに望ましいものであり、それ自身で孤立したものとして、人生をより良くするから望ましいのではありません。

しかしながら、幸福の総量を最大化するという一般的な望ましさの点でのミルの功利主義の証明には、批判の余地があります。1つは、何かが望まれているという事実は、それが望ましいものであるという主張を正当化するものではないようです。G・E・ムーア(1873–1958年)は、ミルが、何かが望まれているならばそれは望ましいものであるという事実の意味から、それはいかなる正当化もなしに望まれるべきであるという規範的な意味へと移行していることを指摘しています。たとえば、ある1人の他人を殺すことを望むことは可能です。これは、人々が望むことができ、実際に望んでいるという意味で望ましい(desirable)ことですが(そうすることが可能である — それは望むことができる(desire-able)行動である)、それは、人々がそれを望むことを私たちが欲するという意味ではありません。

さらに、知識や健康などの他の明らかに良いものは、幸福/喜びを促進する限りにおいてのみ価値があるという考え方は、極めて議論を呼ぶものです。あなたは、知識に関連した喜びや幸福なしに、知識から価値を得た状況を想像できますか?もしできるならば、あなたはミルの主張に対する反例を持っているかもしれません。

1.9 ミルの質的功利主義

ベンサムの功利主義を描きなおす際において、ミルのもっとも重要な考えとは、問題となるのはすべての喜びの総量であるというベンサムの考え方から離れることでした。代わりにミルは、何が道徳的なのかを決めるためには喜びの質もまた重要なのだと考えました。

ベンサムのすべての焦点が快楽的に計算された喜びの総量の最大化であるという意味において、ベンサムの功利主義は定量的です。そのため彼は、「偏見を別にすれば、プッシュピンのゲームは音楽と詩の芸術と科学と同じ価値がある」と言います。14ベンサムにとって重要なことは喜びを作り出すことであり、それが達成される方法は重要ではありません。もしゲーム機で遊ぶことがシェイクスピアを読むよりも多くの喜びをあなたに与えるならば、ベンサムは、あなたがゲーム機で遊ぶならばあなたの人生はよくなると考えるでしょう。しかしながら、ミルは喜びのための質的な基準を導入します。ミルはこう言います:

満足している豚より不満足な人間であるほうが良い。満足している愚か者よりも不満足なソクラテスであるほうが良い。そして、愚か者や豚が異なる意見を持っているのならば、それは単に彼らがこの質問について自分自身の側しか知らないからである。15

ベンサムは、不幸なソクラテスが幸せな愚か者よりも価値のある人生を送るであろうことを認めることができないでしょう。一方、ミルは、単に量だけではなく、喜びの質もまた重要であると信じているので、快楽主義的な基準によってさえもソクラテスがより良い人生を送っているという主張を擁護することができます。

ミルによれば、より高い喜びは、より低い喜びよりも価値があります。より高い喜びとは、詩、読書、劇場へ行くことなどの活動を通じてもたらされた知性の喜びです。より低い喜びとは、動物的であり基本的なものです。ビールを飲んだり、セックスをしたり、日光浴用の椅子でだらけたりすることに伴う喜びです。全体の喜び(ベンサムの計算を使って快楽的に計算されたもの)が結果として量的に少なくなったとしても、私たちが最大化しようとすべきなのは、より質の高い喜びです。より高い質の喜びとより低い質の喜びとの間のこの区別は、恣意的なものではなく、単にミル自身の好みを表現したものでもないということを正当化するために、ミルは、有能な裁判官(両方の種類の喜びを経験した人々)が、どの喜びの質が高いか低いかを選択するのに最も適していると言います。ミルが言うところによれば、そのような有能な裁判官は、身体の基本的な喜びよりも知性の喜びを好むであろうし、実際に好みます。これに基づくと、ミルは、多くの人々が本を読みビールを飲むという両方のことをやるが、もし選択肢が与えられたら後者を選ぶという批判を受けます。より高い喜び、より低い喜びについての建前上は偏見を持たない区別というミルの擁護が成功しているかどうかは、あなたの評価と分析のために未解決問題のままとっておきましょう。

1.10 ミルの規則功利主義 vs ベンサムの行為功利主義

ミルとベンサムは、喜びの質の重要性に関する意見の相違に加えて、行為功利主義と規則功利主義への言及によっても分かれています。このような用語はミルの死後に出てきたものですが、ミルは典型的には規則功利主義者であり、ベンサムは行為功利主義者であるとみなされています。

ベンサムのような行為功利主義者は、道徳的判断を下す際に個々の行為の結果にのみ焦点を合わせます。しかしながら、この個々の行為の結果へ焦点を当てることは、時には奇妙で異議を引き起こす例につながることがあります。ジュディス・ジャービス・トムソン(1929年-)は、「臓器移植外科医」の問題を提起しました。16

以下のケースを想像してみてください。ある医師が、5人の患者を担当しており、彼らを死から救うためには新しい臓器を必要としています。またこの医師には、定期的な検査を受けにきた1人の健常な患者がいます。この場合においては、1人の健康な患者を殺し、臓器を取り出して、他の5人の命を救うことによって、喜びの総量が最も増進されるように見えるでしょう。彼らの喜びは、かつては健康であった患者にかかるコストを上回っています。

このような行為は典型的には予期せぬ痛みを伴う結果につながるために、ベンサムは、このような行為に対して「おおざっぱな経験則」を設けるべきであると示唆していますが、このケースが単純に述べているように、行為功利主義者は、喜びの総量を最大化するためにそのような殺害が必要であるのを否定するには無力であるように見えます(功利主義者にこの結論を確信させるために、あなた自身の詳細を加えてみてください)。

私たちはミルを規則功利主義者の陣営に置くことができますが、この規則功利主義者は異なる道徳的な決定手続きを採用しています。彼らの見解では、私たちは一連の規則を作り出すべきであり、その一連の規則とは、もし皆がそれに従うならば、最大の幸福の総量を生み出すであろうものです。臓器移植のケースでは、健康な人を殺すことは、功利主義的に正当化された規則の最良のセットの一部ではないように思われます。なぜなら、健康な患者を殺すことを許すような規則は、幸福の総量を増進するようには見えないからです。そのような規則から生じる1つの結果とは、たとえば、人々が自分の命が脅かされることを恐れて病院に行くことをきっとやめるだろうということです。したがって、もし殺害を許可するルールが認められるならば、幸福の総量の最大化は全体的には促進されないでしょう。

私たちは、規則功利主義を通じてミルの「危害原理」を理解することができます。ミルによると、それは:

…強制と管理の方法をもって個人と社会とのやりとりを絶対的に統治する権限を与えられた、1つの非常に単純な原理である。17

その原理とは次のとおりです:

文明化された共同体のいかなる成員に対しても、彼の意志に反して、正当に権力を行使することができる唯一の目的とは、他者に対する危害の防止である。彼自身の利益は、肉体的なものでも道徳的なものでも、十分な根拠とはならない。18

ある1つの機会において、別の人に危害を与える特定の行為がたとえ喜びの総量を増加させるかもしれないとしても、その行為は全体的な喜びの総量を最も良く促進する規則のセットによっては許されないかもれません。そのため、その行為は道徳的に認められることはないでしょう。

1.11 強い規則功利主義 vs 弱い規則功利主義

規則功利主義者は、臓器移植外科医のような厄介な事例を避けて、危害原理を反映する規則に基づき個々の人権および法的権利を支持し守ることができるように見えるかもしれません。この事実は、少数派の扱いに基づく異議を功利主義者が克服するのも助けてくれるでしょう。なぜなら、少数派集団の搾取は、最も功利主義的に正当化された規則のセットによってはおそらく支持されないためです。しかし、規則功利主義者は厄介なジレンマに直面します。

  1. 強い規則功利主義:(もし皆が従うならば)最大の量の幸福を促進するであろう規則のセットからの指示には、常に従わなければならない。
  2. 弱い規則功利主義:(もし皆が従うならば)最大の量の幸福を促進するであろう規則のセットからの指示は、その規則を破ることによってもっと多くの幸福が生まれる状況では、無視することができる。

強い規則功利主義者たちは、J・J・C・スマート(1920–2012年)が「規則の崇拝」と述べたことに苦しむように見えます。強い規則功利主義者たちは、もはや彼らの前にある行動の結果に焦点を合わせることはなく、どのように行為するかに関しての一般的で非相対的な規則に従うことを優先して、幸福の総量を最大化する選択肢を無視しているようです。強い規則功利主義者は、少数派の扱いや絶対的な法的権利や人権の欠如に基づく問題を避けることはできるかもしれませんが、彼らが目的論的で相対主義的な功利主義理論について回るこれらの問題を切り抜けて生き残るかは明らかではありません。功利主義は、核となる特徴を否定することによってのみ、厄介な影響から救われるように思われます。

一方、弱い規則功利主義は目的論的な性質を保持していますが、それは行為功利主義に向かって倒れこんでいくようです。この規則は、破ることのできるガイドラインを提供しています。また、行為功利主義者が健康な患者を殺すような一般的に最大の良さや効用を生み出さないような行動に対しても「おおざっぱな経験則」を提供することができることを踏まえると、規則功利主義のこのバージョンが独特なアイデンティティーを得るかは明確ではありません。どのような場合に、行為功利主義と弱い規則功利主義は、異なる道徳的指針を実際に提供するのでしょうか?これは、あなた自身の例やこの章の前の例を考慮に入れたうえで、あなたが検討すべきことです。

1.12 古典的功利主義者の比較

ベンサム

  • 快楽主義者
  • すべての喜びは等しく価値がある
  • 行為功利主義者
  • 目的論的、公平、相対主義的、最大化

ミル

  • 快楽主義者
  • 喜びの質が重要である:知的なものと動物的なもの
  • 規則功利主義者と見られている
  • もし強い規則功利主義者であれば、目的論的または相対主義的であるかは明確ではない
  • 公平で最大化する理論

1.13 非快楽主義的で現代的な功利主義:ピーター・シンガーと選好功利主義

功利主義は死んだ理論ではなく、ミルで終わりませんでした。ヘンリー・シジウィック(1838–1900年)はミルの後にバトンを引き継いだと考えられており、R・M・ヘア(1919–2002年)は20世紀半ばのおそらく主導的な提唱者でした。しかしながら、選好功利主義者であるピーター・シンガー(1946年-)ほど多くの影響を哲学の外側の公衆の生活に与える者は、現代の哲学者の中にはほとんどいません。

シンガーは、功利主義の非快楽主義的なバージョンを提唱します。彼の功利主義理論は、目的論的、最大化、公平かつ相対主義的ですが、最も多くの人の最も大きな良さをむき出しの形の喜びやより高い形の喜びに還元できるとは主張していません。代わりにシンガーは、ある人の人生を改善するものは、彼らの選好の満足によって完全に決定されると信じています。もしあなたが良い資格を得ることによってあなたの選好を満たすならば、あなたの人生はその選好を満たしたおかげでより良くなります。もし誰かが教育を受け続けるのではなく仕事を得たいと望むならば、彼らが雇用されてその選好を確保すれば彼らの生活はより良くなります。シンガーによると、個人が道徳的思考の核心にいなければなりません:

あなたが倫理学で行き当たった結論があなたの人生に何の変化ももたらさなかった場合には、人生を生きることについて、何かちぐはぐなことがあるだろう。それは学問的な練習問題になるかもしれない。倫理をやることの全体的なポイントは、生きる方法について考えることである。私の人生は私の考え方と私が生活する方法との間に一種の調和を持っている。もしそうでない場合は、非常な不和に陥るだろう。19

これに基づいて、私たちが道徳的な意思決定を行う際には、私たちは全体的な選好の満足の最大化を確保するためにはどうするのが一番良いかを検討するべきです。私たちの選好の満足が私たちに喜びを与えられないかどうかは重要ではありません。ベンサムの公平性へのコミットメントに引き続き従い、シンガーは、より大きな選好の満足を促進する行動を決定する際に、すべての選好を等しく重み付けすることも支持します。これによって、シンガーはベンサムが悩まされていたのと同じ問題にさらされる可能性が生じます。すなわち、えこひいきが望ましいと思われる状況や、多数派の選好が少数派の集団を脅かすように見えたり、私たちの完全性を犠牲にすることを要求するような状況が関わる場合のことです。さらに、計算の問題も関連していると思われます。なぜなら、少なくともいくつかの道徳的に困難なケースでは、あなたが他者の選好をどのようにして見つけ出すことができるのかは明らかでないからです(もし動物が関連するならば、動物の選好についてはなおさらです)。

残虐な、あるいは明らかに不道徳な選好を満足させる道徳的妥当性と、そのような満足を道徳的な成果として数えること(たとえば、一群の小児性愛者の選好を考慮してみてください)に関する懸念に対する返答として、私たちはリチャード・ブラント(1910–1997年)の考え方をみることができます。ブラントは、ある種の選好の合理性について書く中で、合理的な選好とは認知心理療法を切り抜けることができるようなものであると示唆しました。20しかしながら、この要件がどの程度恣意的であり、何らかの当惑させられるような選好が、そのような療法の後でさえも特定の個人の中核を形成し持続するのかどうかという疑問があります。

1.14 まとめ

功利主義は依然として生きた理論であり、行為と規則の両方の定式化の支持者だけでなく、快楽主義と非快楽主義の両方の擁護者も抱えています。結果が重要であるという中心的な洞察は、功利主義者にとって深刻な問題を提起する仮説的なケースを考慮したとしても、この理論に対していくらかの直観的な支持を与えます。功利主義のさまざまなバージョンがどの程度それらの異議を切り抜けているかは、批判的な心を持った哲学者としてのあなたが決めるべきものです。

1.15 学生によくある間違い

  • ベンサムの理論が説明するであろう喜びの態度的な側面を反映していない。
  • 喜び/苦痛の産出に関して、行動の長期的な影響を最小化している。
  • 功利主義における快楽的/非快楽的な分断の不正確な理解。
  • 功利主義を擁護/攻撃するための例の使用における不正確さ。
  • あなたがより少ない人を殺すことが究極的には道徳的に正しいことであると判断したことを単純に理由として、「ジムとインディアン」は功利主義への反例ではないと示唆すること。

1.16 検討すべき問題

  1. あなたの人生を改善するであろうものであって、喜びにも選好の満足にも還元できないものはありますか?
  2. あなたは、出てこられないということを知っていながら、ノージックの経験機械に入りますか?あなたは、自分が気にかけている人がその決断を下さなくてもよいように、その人が眠っている間にその人を機械に入れますか?
  3. 喜びを測定することができますか?ベンサムはこの仕事に正しく取り組んでいますか?
  4. ベンサムの行為功利主義が直面する最も深刻な問題はどれですか?それは克服できますか?
  5. ミルはベンサムの行為功利主義を何らかの方法でうまく改善していますか?
  6. テレビの視聴をやめて何か他のことをするように言われたことはありますか?これはあなたにとって良いことですか?なぜ?
  7. この章の冒頭にあるダラ・オブリエンの引用を見てください — なんらかの喜びが価値において他のものより劣るということは可能ですか?
  8. もしあなたに強制されるとして、あなたはより大きな良さのために犠牲になりたくはないという確信または信念がありますか?
  9. なぜ功利主義者は、喜びを最大化するという考え方をあきらめて、十分な喜びを促進するという観点だけから話をしないのでしょうか?これは問題を解決しますか、または問題を生じさせますか?
  10. 弱い規則功利主義は行為功利主義の単なる別名ですか?
  11. 強い規則功利主義は功利主義理論として分類されるに値しますか?
  12. もし心理療法後にあなたの選好が変わったとしたら、元々の選好はそもそも重要だったのですか?

1.17 重要な用語

規範的

相対主義的

目的論的

帰結主義者

効用の原理

行為主体-中立性

快楽計算

効用

本質的

1.18 参照文献

Bentham, Jeremy, The Rationale of Reward (London: Robert Heward, 1830), freely available at https://books.google.co.uk/books?id=6igN9srLgg8C

―, ‘An Introduction to the Principles of Morals and Legislation’, in Utilitarianism and Other Essays, ed. by Alan Ryan (London: Penguin Books, 2004).

―, An Introduction to the Principles of Morals and Legislation, freely available at http://www.econlib.org/library/Bentham/bnthPML18.html
[関嘉彦責任編集「世界の名著49 ベンサム/J・S・ミル」、中央公論新社、1979年]

Brandt, Richard, Ethical Theory: The Problems of Normative and Critical Ethics (Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall, 1959).

Mill, John Stuart, On Liberty (London: Longman, Roberts, Green & Co., 1869), freely available at http://www.econlib.org/library/Mill/mlLbty1.html
[「自由論」斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2012年]

―, ‘Utilitarianism’, in Utilitarianism and Other Essays, ed. by Alan Ryan (London: Penguin Books, 2004).

―, Utilitarianism, freely available at https://www.utilitarianism.com/mill1.htm
[功利主義論集「功利主義」川名雄一郎・山本圭一郎訳、京都大学学術出版会、2010年]

Nozick, Robert, ‘The Experience Machine’, in Ethical Theory, ed. by Russ Shafer-Landau (Oxford: Blackwell Publishing, 2007).

Thomson, Judith Jarvis, ‘The Trolley Problem’, The Yale Law Journal, 94.6 (1985): 1395–415, https://doi.org/10.2307/796133

Toolis, Kevin, ‘The Most Dangerous Man in the World’, the Guardian (6 November 1999), freely available at https://www.theguardian.com/lifeandstyle/1999/nov/06/weekend.kevintoolis

Williams, Bernard, ‘Jim and the Indians’, in his A Critique of Utilitarianism, freely available at https://www.unc.edu/courses/2009spring/plcy/240/001/Jim_and_Indians.pdf


  1. R. Nozick, ‘The Experience Machine’, p. 292.

  2. Ibid.

  3. J. Bentham, ‘An Introduction to the Principles of Morals and Legislation’, in Utilitarianism and Other Essays, p. 65.

  4. Ibid., p. 66.

  5. Ibid., p. 65.

  6. Ibid., p. 87.

  7. J. Bentham, An Introduction to the Principles of Morals and Legislation, http://www.econlib.org/library/Bentham/bnthPML18.html

  8. B. Williams, ‘Jim and the Indians’, https://www.unc.edu/courses/2009spring/plcy/240/001/Jim_and_Indians.pdf

  9. この「喜び」の話から「幸福」の話への移行については、この章の第8節で説明されます。

  10. J. S. Mill, ‘Utilitarianism’, in Utilitarianism and Other Essays, p. 308.

  11. J. Bentham, The Rationale of Reward, p. 206, https://books.google.co.uk/books?id=6igN9srLgg8C

  12. J. S. Mill, ‘Utilitarianism’, p. 281.

  13. J. J. Thomson, ‘The Trolley Problem’, p. 1396.

  14. J. S. Mill, On Liberty, http://www.econlib.org/library/Mill/mlLbty1.html

  15. Ibid.

  16. K. Toolis, ‘The Most Dangerous Man in the World’, https://www.theguardian.com/lifeandstyle/1999/nov/06/weekend.kevintoolis

  17. R. Brandt, Ethical Theory.