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6 インターネット:閉じた思考に対する勝利

インターネットは情報社会のインフラだ。現代社会の道路や線路であり、情報スーパーハイウェイだ。そしてそれは私たちが持っているオープンなシステムの最たる例でもある。すべての人に自由と可能性を提供する、オープンなデザインのシステムだ。インターネットが提供する自由は、インターネットの開発者の想像を超える新しい使い方を世界規模で開発することを可能とした。インターネット上でGoogleやAmazonは始まり、インターネット上で10億のウェブサイトが誕生し、インターネット上でデジタル・エコノミーが始まった。

オープンネスはこの華々しい成果の中心にあったが、それは必然的なものではなかった。むしろ、異端な状態なのだ。他の遠隔通信のネットワークはほぼすべてがクローズドなもので、制限された接続と特定の限定されたデータを扱ったものだった。接続する許可は(例えば国際電話の独占のように)ネットワークの所有者によって厳重に守られていた。そしてその利用目的も事前に決められていた。

1992年時点で、ジュネーブのITUによって出版されていた世界の電話システムの標準が記載されているマニュアルであるBlue Bookを買うのに5000ドル必要だった。携帯電話については、1990年台初頭から2000年台半ばまではGSMが標準の通信規格だった。もし自分で用意した端末で信号を受信できるようにGSMシステムを作りたかったら、GSMの仕組みを理解し、それを使う許可が必要だった。しかしそのいずれも不可能で、基地局がどのような仕組みで機能しているかの情報は厳しく管理されていた(実際、あるホワイトハットハッカーがeBayでGSM基地局を入手してプロトコルをリバースエンジニアリングできたのは2010年だった)。その情報が入手可能だったとしても、いずれにせよそれを使う許可は多数の特許で制限されていた。

20世紀の大部分において、電話による通信は政府が独占企業を通じて規制を行っていた。その徹底ぶりはHenry Tuttleとアメリカの巨大企業であるAT&T社の事例からもわかる。

Henry Tuttle氏はHush-a-Phoneと呼ばれた電話サイレンサーの発明家だった。このHush-a-Phoneは電話の受話器の話す方の端に装着することで、周りにいる人達に会話の内容を聞き取られないようにするプラスチックコップのような装置だった。Tuttle氏は1940年後半に、Hush-a-Phoneのような装置はAT&T社が政府と合意した曖昧な規定に基づいて禁止されているという通告を受けた。その規定は以下の内容だった:

電話会社によって用意されたものでない限り、電話会社が提供する備品に、物理的に、電磁誘導的に、あるいはそれ以外の方法で、装置、器具、回路または機械を一切接続してはならない。

簡単に言うと、自分の受話器であってもAT&T社の許可なくして、プラスチックのコップでさえつけることができなかったのだ。AT&T社のネットワークが当時、そしてその後も長い間、唯一の大規模コミュニケーションネットワークだったため、Tuttle氏の全く害のないビジネスの首を絞めていた。1950年にAT&T社はTuttle氏をワシントンDCの連邦通信委員会の取締役による聴聞会に出頭するよう要請した。人によっては、電話会社と競争が発生しない、利用者の少ないよくわからない商品についてのちょっとした出来事だと考えたかもしれない。しかしAT&T社は、何十人もの代理人と、専門家と、トップレベルの執行役の大群を率いて登場したのだ。一方Tuttle氏の味方は、彼の弁護士と、それからハーバード大学の音響学の教授2名のみだった。

この聴聞会でAT&T社はHush-a-Phoneに関心があったのではなく、電話システムへの接続に関する原則に関心があった。そしてその背景には、誰が力を持つかという重大な問題があった。もしTuttle氏の行いが許可されてしまえば、その他のあらゆるイノベーションを接続することを許可する必要性が出てくる。そして人々がAT&T社の統制と監視の外で様々なことができてしまうと、AT&T社にとっては危機的な状況となる。もしかすると、ある日誰かが彼らのビジネスを妨害するような発明をするかもしれない。世界で最も安全で、安定していて、政府によって保証された独占市場の一つにいたAT&T社は、どれだけ末端の事例であっても、そして代替できる商品を提供することがなくても、誰かが事業に割り入ることを望んでいなかった。

聴聞会の5年後、Hush-a-Phoneは「電話システムにとって有害であり、それによって営まれるサービスを傷つける」という裁定が出された。AT&T社はHush-a-Phoneと、それに類する装置を禁止する権利を得たのだ。そしてこの事件はそこで落着を見ることになっていたかも知れない。その場合にはインターネットが着想されるよりも遥か前にその可能性に壊滅的な打撃をもたらしたことだろう。

ここで読者の方は「本当に?インターネットとHush-a-Phoneは全くの別物ではないか。」と考えているかもしれない。実際別物ではあるが、それぞれに2つの共通点がある。1つ目に、いずれも電話ネットワークのアタッチメントとして利用可能であることが上げられる。電話が手元にない状態では誰もHush-a-Phoneを買うことは無かっただろう。インターネットでは、電線あるいは光回線を使って、あるいは電磁波としてデータを送信する。インターネットという空間を作り出すためには、伝送システムへのアクセスが必須で、20世紀後半のアメリカではAT&T社が唯一の伝送システムだった。AT&T社が何百マイルの銅線を各地域の世帯と企業に張り巡らせ、それぞれのローカルなネットワークをつなげて国家のネットワークを作り出し、長距離かつ大容量の通信に対応したインフラに巨額の投資を行っていた。ケーブルテレビ局によって設置されたシステムや、衛星通信事業者とその後のインターネットブームにより発達した光回線による長距離通信といった代替物が出現するのは何十年も先のことだった。50年過ぎた今日でも、AT&T社、他国ではそれに類する独占企業が、家庭や企業の「ラストワンマイル」の接続の唯一の提供者となっている。結局の所、アメリカではインターネットやそれに類似したサービスはAT&T社のネットワークへの接続がなければ稼働することができない。

AT&T社は全く無害なHush-a-Phoneを鎮圧するためにかなり力を入れた。それらの装置はネットワークの安全性と機能性にとって脅威であると主張し、修理工の人たちが怪我を負ったり感電しているイラストを提示した。プラスチックのコップがそんなに危険だと考えるなら、インターネットのようなものを彼らが想像したら発作さえおこしたかもしれない。なぜならこれは、AT&T社の回線を使って完全に新しい信号やメッセージを送信することを意味するからだ。コップどころではなく、コンピューターそのものがAT&T社の回線と接続することになる。

もちろんFCCは1995年の判決がHush-a-Phoneだけではなく、その後半世紀における最大の技術的なブレークスルーを抑圧したかもしれないということは知る由もなかった。これはイノベーション政策を考える際の皮肉でもあり課題でもあるのだが、私たちは何を知らないかを知らないのだ。1 未来という時間にはロビイストや弁護士がついていない。私たちは予期できることや想像できることに基づいて判断せざるを得ない。しかし最も重要でエキサイティングなイノベーションはまさに予期できないようなものが大半だ。これがオープンネスが極めて重要である理由である。オープンなシステムは誰でもそれをもとに創造することを可能とし、イノベーションを最大限に多様化させるものなのだ。

幸運なことに、Henry Tuttle氏の声はかき消されることはなかった。彼は自身の境遇を不当に思い、それまで数年にわたって多くの費用がかかったにも関わらず抗議をさらに推し進める断固たる意志があった。判決を控訴裁判所に持って行き、そこでは1956年にBazelon裁判官率いる連邦裁判官らが全会一致でFCCの判決を覆した。さらに、その判決の最後から2つ目の文章に重要なフレーズが盛り込まれていた。AT&Tの利用者は「公的に有害ではなく、私的に有益である方法で電話を合理的に使用する」権利がある、と。このフレーズがインターネットが必要としていた突破口を開いた。このフレーズがAT&Tが守っていたクローズドなシステムに穴をあけ、数年後その穴によって競争が激化し、帝国のようにすべての権力を掌握していた状況が根本から致命的に弱体化することとなった。

1950年のHush-a-Phone聴聞会で証人として出席した二人の専門家は、ハーバード大学の音響学の教授であるJ. C. R. LickliderとLeo Beranekだった。この二人はインターネットとその特有のオープンな哲学の確立において中心的な役割を果たすこととなる。1950年代後半、Lickliderはコンピューターに魅了され、コンピューターと人間のインタラクションをどう改善するかという課題に興味を持っていた。彼は1962年にペンタゴンの高等研究計画局(ARPA)のコンピューティング部門の資金管理の取締役に任命され、当時アメリカで存在した類似したプロジェクトの予算を合算させた額よりも多い予算を管理することとなる。その予算は当時において最も想像力に富んだ、縛られない研究に使われた。コンピューターが人間の思考を高めるのであれば、人間とコンピューターそしてコンピューター同士で対話を行う方法を見つける必要がある、という考えが彼のビジョンの中心にはあった。相互接続したコンピューターのネットワークの可能性が見え始めていた。

LickliderはARPAを2年務めた後に退いたが、彼の考えは後継のBob Taylorと、パケットのやり取りを考えたRand CorporationのPaul Baranやその他の多くの人によって発展した。1968年の8月に、のちにArpanetと呼ばれる私たちが現在知っているインターネットとなる、最初のプロトタイプの実装が提案された。これの作成依頼はBolt, Beranek & Newman(BBN)という小さなコンサルティング会社に送られた。BBNはLickliderのハーバード時代の同僚であるLeo Beranekが立ち上げた会社で、明晰さと形式ばらないことで評価されていた。

この話は、その試作品から私たちが知っている、何億人というユーザーが存在しペタバイト単位で情報が行き来する今のインターネットに至るまでの長い道のりを記すものではない。ここで大事なのは、インターネットが理念とした、ほかのコミュニケーションネットワークとは大きく異なる哲学、すなわち情報へのアクセスのオープンネスだ。

1つ素晴らしい例を紹介する。Bolt、BeranekそしてNewmanが1968年に、初期の4つのホストからなるネットワークを作っていたとき、そのネットワークを通して何を送信するかという議題が上がった。当時eメールやウェブページは発明されていなかった。BBNは、データを送るための信頼できる物理的なつながりを構築する責任を負っていたが、このデータが何なのかがわからなかった。

ここで、面白いことが起こった。BBNと関係する大学で、興味を持った大学院生たちがNetwork Working Groupと自称する集まりを作ったのだ。彼らはBBNと連絡を取り非公式の認可を得た。そして「Request For Comments(コメントの依頼)」という非公式であることを強調した題目でアイデアや仕様を公開しはじめた。彼らは将来インターネットのプロトコルとなるものを発明し、それを早い段階で頻繁に、そしてオープンに公開した。これがどれほど驚くべきことかを理解するためには、ARPAが国防総省下部組織であったことを思い出す必要がある。その際は通常、契約は安定した官僚体制の大きな企業と結ばれる。(BBNと競り合った入札者は巨大軍事企業であるRaytheonだった。コンピュータ企業であるIBMとCDCはプロジェクトは失敗に終わると考え入札を断っていた。)これに加えアメリカ国内のすべての遠距離通信は、偏狭で階級的な組織であるAT&T社によって運営されていた。AT&T社内であれば、大学院生はプロジェクトに近づくことなく、言うまでもなくオープンなフォーラムで重要な仕様の設計が任されることもなかっただろう。Arpanet(つまりは後のインターネット)の重要な仕様の全ては非公式に、正式な委員会もなく作り出された。はじめからすべての機能をオープンソフトとして無料で入手することができた。(ある年齢以上の読者であれば、アカウントを作って「送信」ボタンを押すだけでeメールを始めることができた感動を覚えているかもしれない。無料で、ライセンスもなく、公式なキャリアの存在しない、魔法のような技術。)

これを従来の電話産業と比較してみるとどうだろう。電話産業では、基準は何年もかけて委員会により決定され、それらへのアクセスは一握りの人間にのみ許されていた。これらの仕様はクローズドで、国際電気通信連合(ITU)によって支配されていた。Blue Bookがインターネット上に無料で公開されていても不思議ではなかった1992年でもそれは5000ドルもの価格がつけられ、ITUですらちゃんと読むことのできない古いソフトウェアに閉じ込められていた。

それとは対照的に、Licklider、Baranやその他の人々のおかげでインターネットはオープンな設計思想を持つこととなった。支配的に管理する中核もなく、ネットワークは分散され、プロトコルに従う限り誰しもが好きなものをつなげることができた。これはAT&Tにとってあまりにも斬新であったため導入することができなかった。AT&T社は1972年にできたばかりのArpanetを引き継ぐ機会が与えられた。シニアマネージャーや専門家が数ヶ月にわたり協議し、その結果、自社のネットワークとの不和合性を理由にその提案を断った。

閉じた考え方をしていたのはAT&T社だけではなかった。1980年台初頭にパーソナルコンピュータが普及したことで、各国で電気通信会社が自分たちの小さな情報ネットワークを作り始めた。例えばフランスのテレコムであるMinitelや、イギリスのテレコムであるCeefaxだ。これらのいくつかは当時のインターネットよりも高度なものだった。World Wide Webが登場する10年も前の時点で、これらは天気予報や鉄道の時刻表を家々に届けていた。しかしこれらは一つ重要な点でインターネットとは異なっていた。オープンではなかったのだ。これらのサービスにどのような情報が掲載されるかは管理者が決定していた。

幸いなことに、インターネットはこれらのクローズドなシステムに勝つことになる。丁寧に育まれ、アカデミアに強く基づくことで再起し、1980年中盤には世界中に広がる用意ができていた。

なぜこのようなことが可能だったのだろうか。インターネットは何が違ったのだろうか。その理由の多くは政府による資金提供によるところが大きい。アメリカではインターネットの初期の費用はそのほとんどが政府の研究資金によって賄われていた。一方英国ではアメリカほど政府による資金提供は大きくなかった。(英国のDonald Daviewによるイギリス国立物理学研究所での研究がパケットスイッチング技術の発展には必要であったのだが。)さらに重要だったのは政府による資金提供の方式であった。今日でも、公の機関が実現できるものとしてARPAは伝説的である。外部の職員を採用し、官僚を最小限にとどめることで大胆な賭けに出ることが自由にできた。ARPAからの資金提供はインターネットだけではなく、私たちが日々恩恵を受けているユーザーインターフェースやマウスを使った操作などの他のデジタルな要素を作り出すことにも役立った。この資金にはビジョンがあった。前代未聞の何かが可能だというビジョンだ。

この欠くことのできない政府の補助に加え、インターネットは比較的権力の干渉を受けずに成熟する幸運に恵まれた。はじめは民間の業者は何が起こっていて、自分たちのビジネスにどのような影響をもたらすかを理解できずにいたのだ。1960年代から1970年代にかけてFCCはホワイトハウスの後援のもとオープンネスと競争を増大させることを支持し、AT&Tに対して強硬な姿勢をとった。結果として、インターネットは誰かが単独で独占したり支配しようとする前に成熟した。もしAT&T社がアメリカのデジタルネットワークにおける独占を維持したままであったら、粗末な電子通信システムは存在していただろう。しかしこれはインターネットのようなものではなく、フランスのMinitelのような、広がりのない高額なものであっただろう。案の定、インターネットが始まった1990年台に、AOL、Microsoft、AT&Tなどの大手プレイヤーがその掌握を試みたがすでに手遅れだった。インターネットは一つの企業、さらには政府でさえも所有できないほど大きなものとなっていた。

インターネットとウェブは、それによって作り出されたものの量、質、勢いにおいて、今までに存在したものの中で最大のイノベーションのプラットフォームである。これが実現したのは、独占が成立していないことが大きな要因である。しかしこの独占に関する問題はいまだに続いている。なぜなら私たちの知るデジタルな世界はオープンネスを推進する努力がなければ私有の独占に傾く傾向があるからだ。例えばFacebookはインターネットの上にFacebookが所有するレイヤーを作ってきた。インターネットにログインするのではなく、Facebookにログインする人たちが増えてきている。私自身を含むほとんどの人にとって、これは一見無害であるように思える。Facebookは素晴らしいサービスを提供しており、私の友人も皆使っている。私自身も使っていて感じることだが、友人にメッセージを送ることであれ、イベントの企画であれ、写真や考えの投稿であれ、インターネットの使用がFacebookに支配されている割合が増えていることに私たちはほとんど気づかない。少しずつだが、Facebookは私たちがネット上で生活する場所となりつつある。ソーシャルメディアの通信の約80%はこの一つの会社を経由している。

Facebookは独占企業であり、FacebookのCEOや投資家たちはそうであり続けるために必死になっている。Facebookの周辺でおこるイノベーションが、Facebookにとって脅威ではなく補助となるように力を尽くしている。実現することのなかった、あるいはFacebookに吸収され抑圧された会社、そしてそれによって起こらなかったイノベーションなどのマイナスの影響が見えづらいのは当然だ。

自身の革新的なソーシャルネットワークを今日から始めたいとしよう。始めるためにはまず、ユーザーがFacebookを通じてコンテンツを共有できるように、完全に独立したネットワークではなく何かしらの形でFacebookと協力する必要があるだろう。しかしそれを容易にすることはFacebookにとってインセンティブはあるだろうか。あるいは逆にあなたを妨げたいと思うだろうか。その答えは出ている。非常に皮肉なことにFacebookを可能にしたのがインターネットのオープンネスだったが、オープンネスは今ではFacebookにとって脅威となり、Facebookは少しずつインターネットをクローズドなものにしている。

Facebookとは異なるより良い方法の例として、音楽のストリーミングの運用の仕組みと、それがどのように一つの国という広範囲にわたって利益となるかを見ていこう。

  1. Michael Faradayが、新しく発見された電気についてどのような有用性があるか問われたとき、彼は「新生児にはどのような有用性があるのか?」と答えたといわれている。 ↩