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13 著作権の戦い

1500年前、6世紀のアイルランドである書籍の著作権を巡って起こった議論が長期的な論争に発展した。中心にいたのはSt Columbaとして知られる、Colmmcilleという名前の神父だった。25歳のときに叙階式を行った後アイルランドを旅し、15年間で35以上の修道院を築いた。書籍の不足により宗教的な学習が制限されていたため、彼は時間があるときはいつも書物を書き写した。そして彼は教会の教えを広めるために他の修道士にもそうするように促した。

The Vulgateは5世紀のSt Jeromeによる、聖書のラテン語への翻訳であった。その複製はMovilleのFinnianによりローマから初めてアイルランドに渡った。彼は書籍が読まれることを強く制限しており、他の人がそれを読むことを許可しなかった。FinnianはColmcilleの教師の一人であり、彼は自身の生徒は例外として、複製しないという条件の下で翻訳本を読むことを許可していた。Colmcilleは渋々従っていたが、制限を無視した。その知識がしまい込まれるにはあまりにも貴重だと感じたのだろう。

彼は可能な限り素早く夜の間に複製することを続けた。ある夜発見され、Finnianは複製された方を手渡すように求めた。Colmcilleはそれを拒否した。彼は聖なる言葉は誰かが所有できるものではないと信じ、Finnianのためではなく神と教会のために務めることが最優先であると考えていた。

アイルランドの上王であるDiarmidが争いを解決するよう求められたとき、複製を通じて知識を広めることが教会の役目であるとColmcilleは主張した。彼は本を複製することでFinnianの本を損なったわけでもない。しかもFinnianの本そのものが複製で、St Jeromeのオリジナルの原稿ではないのだ。書籍は物質的な財とは性質が異なるのだ。

しかしKing DiarmaidはColmcilleにとって不利な判決を下した。王は「知恵のある者は、本の複製を子本と呼ぶ。それはつまり親本の所有者が子本の所有者でもあることを意味する」と言った。「親牛にとっての子牛のように、親本にとって子本である。子本はFinnianのものである」と。

言い伝えによるとColmcilleは王に罵声を浴びせ、修道院に戻ったとされる。その後物事は血なまぐさい展開を迎えることとなる。Colmcilleは、King Diarmaidによって人質にされていた罪人を庇護すると、王はColmcilleの修道院の庇護を無視し、人質を追い、殺した。これをきっかけに戦いが起こり、伝説によるとその争いによりDiarmaidの兵3000人が命を落とした一方で、Colmcilleは兵を1人しか失わなかったという。

しかしColmcilleの勝利は長くは続かなかった。彼は教会の会議の神父たちによって破門され、追放された。そして「本をめぐる戦い」から2年経過した563年にColmcilleは12人の随行者を引き連れてIonaへ向けて出港した。彼はさらに新たな修道院を設立し、スコットランドのピクト人の間にキリスト教を広める際、重要な役割を果たした。

Colmcilleの、Vulgateの書が通常の財ではないという理解は教義に基づいたものであり、もちろん現代の経済、科学の進歩やその他の基盤としての情報という認識とは異なっていた。しかし彼の、物理的な物の所有と情報に備わっている複製可能性との区別は1500年経った現在においてさらに重要性を増している。彼が王の前で述べた情熱的な嘆願は、オープンな情報の本質的なロジックをはっきりさせた。

あの方は古びた法を新たな現実に当てはめようとしている。書籍は他の動産とは異なり、法律はこれを認識すべきである。私たちのような、書籍を通じて新たな知識の遺産を受け取り学びを受けた人々は、複製をして配布することでその知識を広める責務がある。Finnianの書籍を複製することでそれが失われるわけではない。Finnianは原本を持ち続けるし、複製されたことで原本の質が落ちるわけでもないし、ましてや価値が落ちるわけではない。書籍の中の知識は、それを読みたい人、読む能力を持っている人全てに対して利用可能であるべきだ。そしてそれらの知識を隠したり、書籍に収録されている神聖なものを消し去ろうとすることは間違っている。私や他の誰かが複製をしたり、読んだり、複製したものを広範囲に配布することを阻止しようとすることは間違っている。