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8 生命の神秘が永遠の秘密になりかけた日

2000年の6月26日、ワシントンとロンドンにてBill ClintonとTony Blairはヒトゲノム(私たち人間の遺伝情報)のドラフトの完成版の公開を発表した。この成果は月面着陸や、さらには車輪の発明と並べて語られるほどのものだ。しかしその発表や報道の多くでは抜け落ちていた事実がある。それは、自然の究極のデータベースであるゲノムが「オープン」に公開され、研究者であれスタートアップ企業であれ就学中の児童であれ、公的にかつ自由に閲覧し利用することができるという事実だ。

また、それが危うく間一髪のところで一つの私企業によって支配、所有され、お金を払った者のみがアクセスでき、独占を維持するために情報を囲い込む「クローズド」なゲノムとなっていた可能性があったことは明確には報道されなかった。

そしてこれは極めて重要なことである。ヒトゲノムはタンパク質から細胞から一人の人間までの作り方が記されている、30億個の文字からなる設計図であるからだ。このデータベースは科学と薬学においてとてつもない価値があり、遺伝子を特定して理解することを可能とし、嚢胞性線維症から癌まで、全ての病の治療の鍵を握っている可能性があるのだ。

ゲノムが「オープン」であるということは、最大限の人が解読、分析、利用、改善することが可能であるということだ。クローズドではなくオープンであることで研究は加速し、イノベーションが刺激され、人の命を救い、何十億ドル分もの社会的、個人的価値がすでに生み出されている。2013年に経済学者は、この情報をすべての人に対してオープンにしたことは後続の研究を20~30%増加させたと概算した。そして純粋に経済学的なこと以上に、私たちに共通して存在している遺伝情報が共有されることが望ましいことは明らかであろう。一つの独占的な供給者による所有を許していたならば悲惨なことになっていただろう。

ヒトゲノムはこれまでで最大のオープン情報プロジェクトである。これは情報をオープンにすることが可能でかつ望ましいことであることを示している。オープンな情報は優れていることが証明されている。オープンな情報はコストが低く、より速い結果を生み、社会により多くの価値を届けてきたのだ。ゲノムプロジェクトは決して小さなものではなかった。実現させるためには数億ドルの公的で慈悲深い資金が必要だった。オープンな情報を大規模に、効果的かつ効率的に作ることが可能なのか疑っているならば、以下の事例はその疑念を晴らす十分な答えになるであろう。

オープンゲノムプロジェクトは公的資金による科学と研究の小宇宙であり、17世紀の王立協会から現代のアメリカ国立衛生研究所までつながる累積的な取り組みである。全体として科学企業は、新しい情報、新しい知識を生み出す歴史上最大の主体であることはほぼ確実であり、オープンネスがその根底には存在する。公的に資金提供がおこなわれている科学は腐敗(特に独占的な所有権をもつ出版社と、商業化への圧力)に最近は悩まされているものの、情報の創造と共有に献身的であり続けている。科学の本質は「公開」つまり他の科学者やコミュニティと結果を共有することにある。オープンネスは累積的で協調的な性質を持つ科学の中心にある。アイザック・ニュートンも知っていたとおり、科学者一人ひとりは自身よりも前にいた科学者たち肩の上に立っているのだ。

1953年2月28日、Francis CrickはCambridgeのBenet通りにあるEagleパブで立ち上がり「私たちは生命の神秘を発見した」と叫んだ。お昼のその時間帯に同席していた人々がその言葉の意味を理解していたかどうかはわからない。しかし今の私たちは知っている。彼は同僚のJames Watsonと共に、人間を含む全ての動物の細胞内に存在する、遺伝情報を保存しているDNAの構造を発見したことを言っていたのだ。

これは私たちの身体の細胞一つ一つの情報であり、髪の色から腎臓の機能までを決定している情報だ。WatsonとCrickは、DNAがA、C、G、Tの4つの塩基あるいは「文字」からなる二本の長い配列が二重螺旋構造のかたちで存在することを示した。(DNAを綿糸の幅に拡大すると30億の塩基は200キロメートルもの長さになる)。この配列の中に各タンパク質を作るためのより短い情報が存在し、この部分列は「遺伝子」と呼ばれる。DNA配列の中に何百万もの遺伝子が存在し、それらは「ジャンク」DNAによって区切られている。ジャンクDNAは何もしない(あるいは少なくともまだそれが何をするかを私たちは知らない)ためジャンクと呼ばれる。遺伝子は私たちが必要とするタンパク質全ての情報が書き込まれており、これらのタンパク質から私たちの身体の細胞が作り出される。

CambridgeのCavendish LaboratoryでのDNAの構造の発見は、世界にとって広大な新境地を切り開いた。DNA全体の配列を知ることは生命の情報そのものを入手することであることをWatsonとCrickは知っていた。その配列とそこに含まれる遺伝子の地図は、生物学と薬学において、進化の本質的な性質や遺伝病の原因といった最重要事項の理解の基盤となる。これは、科学者が細胞分化のメカニズムを研究することで、全ての細胞が同じDNAを持つなかでどのように身体の中で異なる機能に特化するようになるかを解明することを可能とする。例えばいくつかの細胞は肝臓の細胞となり血液をきれいにし、いくつかの細胞は眼の一部となり私たちに視覚を与える。この分化が理解できれば、あらゆる種類の細胞を作り出し、古くなったり傷ついた身体のパーツを治癒したり取り替えたりすることが可能となる。

このためWatsonとCrickが1953年のNature紙で自分たちの発見を公表した瞬間からDNAを解析する競争が始まった。しかし科学者はこれが簡単なことではないことを知っていた。構造の推測はできたが、個別の文字を観察する方法はまだ存在しなかった。さらに、配列がわかったとしてもDNAがどのように機能し、遺伝子がどのようにして生物を作り上げているかはわかっていなかった。

WatsonとCrickの論文の公表は、解析が可能であることを科学者に示した。しかしそれは国際ヒトゲノムシーケンス決定コンソーシアムがヒトゲノム全体の最初の論文の草稿を発表した(そして全ての人にオープンとなる)2000年6月の50年近く前のことであった。

解析の試みの最終段階では、対立する2つのモデルの競争となった。一方は、全ての人がアクセス可能なオープンなゲノムを作ろうとしていた、公的資金で働いていた科学者であった。そしてもう一方は、ゲノムと共に有用な遺伝子の特許を所有しようと目論んでいたCelera Genomicsという私企業であった。

1970年代に、イギリスの生物化学者であるFred SangerはDNAに含まれる文字列を読むための、初めての実用的な手法を開発した。この手法を用いることで彼と彼のチームは、ある一つの生物(phiX174と呼ばれるバクテリオファージ)の全配列を読み取ることに初めて成功した。彼らの手法はDNAを細かい断片に切断し、多数のコピーを作るために「クローニング」を行い、複雑な化学反応を作用させることで断片を並べ、ひたすらつなぎ合わせるというものだった。これによりSangerは1980年のノーベル化学賞を共同で受賞した。この手法と本質的に同じものが現在のDNAシーケンサーでも用いられている。

当初は全ての作業が手作業で行われ、数千の文字を読むには何年もかかった。しかし時代とともに技術は発展し1980年代半ばには、人間を含めたより大きな生物のDNA解析についての話が出始めていた。1986年にアメリカのSanta Feで開かれたOffice of Health and Environmental Research主催の会合にてハーバードの研究者であるWalter Gilbertは、人間の遺伝子配列は1文字1ドル(ゲノム全体では30億ドル)で読み取ることが可能となり、2000年代半ばには完了しているだろうと予測した。どちらの予想も当時の技術を踏まえると楽観的であり、一つのプロジェクトに多額の資金を費やすことに反対する意見が少なからず存在した。しかし企業の技術的な実現可能性と、有力な資金提供者の生物学的な「ビッグサイエンス」への関心という2つの重要な力が融合しつつあった。ヒトゲノム計画はジャーナリストも理解できる野心的で話題性に富むプロジェクトで、政治家や富豪が関わりを持ちたがる、エゴを満たしてくれる成果を生み出すものだった。そしてそれは成し遂げるために必要な多額の資金を吸い寄せることのできるプロジェクトであった。

1989年に国会は予算を承諾した。翌年正式に設立されたヒトゲノム計画は2005年の完成を目指し、James Watson本人によって指揮された。日本、フランス、イギリスを含めた他の国々の動きも活発だった。実際に、比較的小さい国であるイギリスは後に、主にケンブリッジのMRC Laboratory for Molecular BiologyのJohn Sulstonと彼の研究グループの活躍により大きな役割を果たすことになる。

Sulstonは一言では語り尽くせない人物である。彼は線虫の胚細胞分裂をリアルタイムで観察するために1年半もの間、1日2回4時間ずつ顕微鏡を覗き続けた時期もある。彼は名声やお金のためではなく、世界を理解するためのオープンで共有されたものとするために科学に携わっている。謙虚でひたむきでメガネをかけていて大きなひげをたくわえた(そして時にはサンダルを履く)、絵に書いたような異世界から来たかのような科学者である。2002年にノーベル章を受賞した後、彼は科学におけるオープンネスについて話すためにジュネーブに招待された。現地のホテルは高額で、主催者は資金不足であった。そこで主催者たちを助けるためにSulstonは喜んで現地のユースホステルに宿泊した。変わった人のように見えるかもしれないが、Sulstonはその幾年か先にゲノム計画の規模、複雑さ、緊急性が増すにつれて必要とされた強い決意と政治的・経営的能力を持っている。

1990年には、彼は線虫の遺伝子と発生生物学の研究を既に四半世紀続けていた。決定的なことに彼はそれまでの5年間、線虫のゲノムの「地図」を作っていた。彼の研究グループはこの分野を先導していた2つの研究グループのうちの1つで、もう一つのグループはSt LouisなあるWashington Universityにいる、彼の近しい同僚のBob Watersonによって率いられていた。奇妙に思えるかもしれないが、彼らはヒトゲノムの競争で重要な役割を果たすのに適した役職にすでについていたのだ。

線虫と人間は遠く離れた存在に見える。しかしヒトゲノムのような大きなものでも、まずは小さなところから始めてそこから組み立てていく必要がある。線虫は数少ない完璧な「プロトタイプ」動物であったため30年間徹底的に研究されていた。線虫はわずか579の細胞からできていて、「たった」100万の文字からなるゲノムを有しているため、扱いやすい程度に単純で、原始的な神経系を持ち、人間を含めたより複雑な生物と同様の行動をとる程度に複雑なのだ。このため線虫はヒトゲノムを解析するための数少ない「踏み台」となる生物種の一つとなったのだ。線虫のゲノムはそれ自体に価値があるだけでなく、それを解析するための技術と専門知識は人間のDNAの解析に直接応用することができるのだ。

そこで、1990年にヒトゲノム計画が始まるとWatsonはSulstonとBob Watersonを計画に招待した。当時解析されていた最大のゲノムはヒトサイトメガロウイルスのもので、30万塩基より小さいこのゲノムを読み取るのに5年を要した。しかしSulston、Waterson、Crickの3人はヒトサイトメガロウイルスの10倍近い300万ある線虫の塩基を、450万ドルの予算とたった3年という期間で解析するというかなり野心的な目標を立てた。

彼らは予算内に目標以上を達成した。この業績はApplied Biosystems社によって開発された新型のABI自動シーケンサーの入手可能性によるところが大きい。1987年に入手可能となったプロトタイプでさえ手作業による解析と比較して圧倒的に速かった。このプロトタイプは後に登場するものと比較すると速度は遅く、高額(1台あたり数十万ドル)ではあったが、今日も続く進歩の出発点であった。1990年と比較して、1塩基あたりの解析の費用は1メガ塩基(100万塩基)あたり100万ドルから1セントとなり、1億分の1にまで下がった。

Applied Biosytemsの関与は、営利目的のベンチャーキャピタルによって後援されている企業のゲノミクスへの興味が加速していることを示した。米国の特許庁と裁判所が遺伝子と遺伝子に関連する情報に特許を与えることに意欲的であったこともあり、資本が次々と流れ込んだ。しかし1980年代後半ではまだ、人々の関心は比較的薄かった。このため、Sangerと1980年のノーベル賞を共同受賞したWalter Gilbertが、1987年に「Genome Corporation」という私企業を立ち上げた際、彼の同僚は衝撃を受けた。(この会社は同年の株式市場の暴落により消滅した。)ヒトゲノム計画が1990年に始まってすぐ、ゲノムマッピングとゲノム解析はゴールドラッシュのような流行となり1992年から1993年にかけて急速な成長を遂げた。

最も注目すべきは1992年のCraig Venterによる介入だ。彼はそれまでの10年間、アメリカ政府からの資金提供を受けている国立衛生研究所(NIH)で研究者として働いていた。そこで彼は早くから自動シーケンサーを使用していた。彼の研究の多くは遺伝子の最後にある200塩基の短いDNA鎖(expressed sequences tagとして知られる)を解析することが中心だった。1991年に彼はこれらを特許として登録することを強く主張した。しかしこの考えは国立衛生研究所の内部、そして研究とアクセスに与えるインパクトから基礎レベルの遺伝子情報の特許化に強く反対していたJim Watsonとの対立へつながった。

野心を持つと同時に、NIH内で自身のアプローチが支持されていないことに不満を感じたVenterは1992年に辞職し、Wallace Steinbergによって運営されている投資会社から受けた7千万ドルのベンチャー投資資金を使ってThe Institute for Genomic Researchを設立した。これはexpressed sequences tagsと「ショットガン」方式と呼ばれる方法に注目し、ゲノム解析へのもう一つのアプローチを追求することを意図していた。Venterの設立した機関は非営利の機関で、彼と彼のチームは研究を公表する予定であったが、ひとつ問題があった。Steinbergは慈善行為として投資をしていたわけではなかったのだ。SteinbergはVenterの機関と並行してHuman Genome Sciencesという商業企業を設立することになる。この企業でVenterと彼の同僚は株式を所有することになり、6ヶ月の間、価値のある情報であれば12ヶ月間まで(貴重なexpressed sequences tagsを含めた)全てのデータへアクセスする特権を持つことになる。その後も学術関係の科学者はそのデータを見ることができるが、それ以上の商業的な開発に関してはHuman Genome Sciencesが「リーチ・スルー」権を持つことになる。この会社はまたたく間に成功した。会社は大手製薬会社のSmithKline Beechamに対し1億2500万ドルでデータへのアクセス権限を販売し、Venterと彼を支援していた人たちを一晩で大金持ちにした。

Sulstonのような公的研究者にとってこのアプローチは懸念材料であった。ヒトゲノム全てを解析するためには多大の技術が必要であり、完了するには何十億ドルもの費用がかかってしまう。彼らの十分な資金であれば、商業的な関心を持つ企業らは公的な支援を上回る金額を払うことでゲノムの情報を閉ざし、封じ込め、他の人がアクセスすることを制限または拒否することができてしまうだろう。

この重要な時期に予想外の助っ人が現れた。それはWellcome Trustだった。この企業合同は、製薬会社起業家の大物であるSir Henry Wellcomeの死を受けて1936年に設立された。Wellcomeは彼の会社であるWellcome Foundation(後のWellcome plc、さらに後のGlaxo Wellcome、さらに後に吸収合併してできたGlaxoSmithKline)で持っていたシェアをこの企業合同に遺贈した。当初はこの企業合同は比較的ゆっくり成長していたが、特に製薬会社において顕著だった1980年代の株価上昇の恩恵を大いに受け急成長した。その後Glaxo Wellcomeが所有していた抗HIV薬であるAZTの成功でその勢いにさらに拍車がかかった。1992年にこの企業合同はシェアの一部を売り、世界で最も資産の多い民間の医療慈善団体となった。その年間予算は当初の1億フランから、2倍の2億フラン(1992年の時点で3億5000万ドル、現在の金額に換算すると10億ドル)にまで増えた。

これは時期として最適だった。1992年はヒトゲノム計画の転機の年であったからだ。利益追求を行う商業企業の脅威が増していただけでなく、プロジェクトの当初の3年間の助成金の終了が1993に迫っていた。これはCambridgeのLaboratory for Molecular BiologyのSulstonにとって喫緊の課題だった。彼らはMedical Research Councilから受けていた資金をすでに限界まで使っていた。そしてアメリカのNational Institute Healthが何十億ドルを自由に使えるのに対し、Medical Research Councilの予算は遥かに少なかった。しかし突然イギリスはお金持ちの資金提供者を持つことになる。そしてそれが民間の団体であることから、政治的な圧力から(大方)逃れることができること、レビューや監査による制約がかかってしまう公的機関よりも素早く動くことができる、という2つの重要な特徴を持っていた。

Sulstonは資金提供の交渉をするためにWellcomeを訪れた。たった数ヶ月でWellcomeは判断を下し、5年間にわたって線虫の研究を続けるためだけでなくヒトゲノムに関する研究を加速させるために4000万から5000万フランを提供することに合意した。1992年の夏のことだった。この資金提供にはCambridgeのすぐ側にSanger Centerと呼ばれる新しいキャンパスを作るための資金も含まれていた。

そしてなによりも、Wellcomeの資金提供は他の活動をも促した。Wellcomeの助成金に奮起させられたイギリスのMedical Research Councilは1993年に、線虫の解析を完了するために、100万フランを超えるいままでにない金額を助成することにした。たった3年前までは線虫のゲノムの3%を解析する資金しかなかった。今は残りの97%を次の5年間で終わらせ、同時に人間のゲノムの解析を行うことが目標となった。Wellcomeの資金援助はアメリカでの動きも活発化させ、国立衛生研究所もBob Watersonの研究所への資金を増加させた。

この新しい資金提供によってプロセス全体の規模が大きくなり、産業化した。程なくしてSangerは200以上の人が何十もの解析機器を24時間稼働している状況を作り出していた。可能性に対する期待が膨らんでいた。線虫の研究が少しずつ進み、技術が進歩するにつれてヒトゲノムに関心が向けられるようになっていった。それは聖杯であり、線虫のものに比べ30倍大きく、より高価で、配列の中での繰り返しが占める割合が高いためさらに複雑である。

どの期間内に何が達成できるかがわからない中、1994年の秋にWatersonはSulstonに会いにCambridgeに飛んだ。帰路の途中彼は「無作法な提案」を思いついた。それは、ヒトゲノムの解析を年600塩基に加速させるために、負担を自身の研究所、Sulstonの研究所、そして未定の3つ目の機関に分散させるという考えだ。このスケールであれば1塩基あたり10セント(10年前の想定費用の10分の1)で2001年までに3億ドルの予算内で完了することができる。

それはかなり野心的な提案であった。その時点で解析されていたヒトゲノムは全体の1%未満で、さらにそれらは小さな断片の寄せ集めだ。解析の速度もWatersonが提案していた速度の10分の1未満。そして、誰がお金を出すのか。この提案を実現するためには5年間、毎年6000万ドルが必要で、一つのプロジェクトとしては前代未聞の額だった。

この提案は同時に昂ぶるものでもあり、これから起こることの見取り図であった。しかし資金提供者と研究コミュニティはがっかりするほどゆっくりで、落胆することはさらに続いた。1996年にSulstonはMedical Research CouncilとWellcomeに対し、自身が担当する全ゲノムの3分の1を完了するための予算の新規の入札を行った。その額は7年間で1億4700万ポンドで、残念ながらMRCはそのお金を持っていなかった。Wellcomeは半分の6000万ポンドを提供することに合意したが、MRCは5年の間毎年200万ポンドの支援を行うこととなった。

この資金ではSulstonはやりたかったことの半分、つまり全ゲノムの6分の1しか解析できない。アメリカでは、Bob Watersonも同様の経験をしていた。2年間で求めていた金額の4分の1しか与えられなかったのだ。それ以降の新たな助成金はアメリカ国立衛生研究所が1998年に再評価した後に行うという話だった。この原因の一部は政治と、研究コミュニティ内での意見の不一致だった。

8.5 延期がもたらすリスク:BRCA2の物語

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科学における遅延がもたらすリスクの事例として、当時乳がんの遺伝子をめぐって起きていた話がある。1990年の12月、カリフォルニア大学バークレー校のMary-Claire Kingは、乳がんとの関連性が高い、17番染色体上の遺伝子(BRCA1)の変異を特定した。そして1994年にイギリスのサリー大学のMike Strattonは、同様に乳がんとの関連性が高い13番染色体上の遺伝子(BRCA2)の変異を特定した。

モルモン教の人々が家計の詳しい記録をとっており、それが遺伝性疾患を知る良い資料であることを知っていたStrattonは同僚のユタ大学のMark Skolnickと共に研究をしていた。Skolnickはガンに関する遺伝子を探し、それらの遺伝子と、関連する設計可能なあらゆる実験を特許として登録するために、Myriad Geneticsという名前の私企業を立ち上げた。StrattonはMyriadの存在を知っており、BRAC2を特定する直前に、その遺伝子を特定してクローンした場合なにが起こるかを尋ねた。Skolnickは、Myriadがそれを特許として登録するだろうと答えた。しかしStrattonはこれに深く懸念を抱いていた。彼が後に記したように、「臨床での必要性と倫理的な必要性と商業的な必要性の間で争い」が生じるリスク、つまり患者がこの知見から得られる新たな検査や治療の恩恵を受けることを保証することと、あらゆる検査と治療に対して高い金額を請求できるようにアクセスを制限することとの争いが起こるリスクがあることが彼の中で明白となったのだ。彼は「Myriadは投資家のニーズに応える責務があった。私はこの発見がどのように利用されるかについて指揮することはできないであろうことに気づいた。」と述べている。

Strattonは遺伝子の位置を特定した直後にSkolnickとの共同研究を打ち切った。しかし今度は遺伝子を正確に特定し、クローンすることをユタ研究所と競争することとなった。遺伝子を「特定」することは、それを隔離してクローンし、解析することとは異なる。これらの工程全てが、正式な発表や特許申請に必要なものである。StratonはすぐさまJohn SulsltonとSanger Instituteに協力を求め、1995年の11月には解析を終え、Skolnickが特許申請できないように、データをパブリックドメインとし、それをNature紙に掲載することを急いだ。

しかし残念ながら、協力者にさえも情報を秘密にしておくStrattonの努力にもかかわらず、Skolnickが自身のチームで遺伝子を特定し、特許申請を後押しするために十分な情報が漏れていたようだった。特許申請は、Strattonの論文がNature紙に載る1995年の12月28日の1日前に行われた。Strattonの反撃の努力も虚しく、MyriadがBRCA1とBRCA2の両方の特許を持つこととなった。BRCA1を発見したのはSkolnickではなかったが、それを最初にクローンしたのがSkolnickの研究所だった。

特許を取得したMyriadは、検査を行うための実験施設を設立し、検査を受ける患者一人あたり2500ドルを請求した。より安い価格で検査を実施しようとする者に対しては、訴訟や法的な脅しを行うなど攻撃的な行動をとった。Myriadは、より簡易で精度が劣る検査でさえも患者一人あたり数百ドルのライセンス料を支払うことを強要し、他の研究所がこれらの検査を行うことを制限した。

StrattonがBRCA2の検査について「私たちが発見した変異についてMyriadは、アメリカで検査を受ける全ての女性から検査料を請求している。」と苦言を呈した。Myriadへの反撃するには自身で特許を取得する以外に選択肢はないとStrattonは感じていた。そして実際に特許を取得したが、それらが効果はヨーロッパ内のみと限定的だった。例えば、イギリスのNHSはMyriadのライセンスを購入することを拒み、Strattonの出版物と特許を用いて検査を実施した。フランスでは、Institut Curieがフランス政府の支援を受け、2001年の9月にMyriadの特許に対して正式な異議申し立てを行った。そして数年に及ぶ長い争いの末、Myriadの特許は無効となった。これらの勝利に関わらず、Myriadは全体の競争では成功を収め、2015年にはその資産が30億ドルに達し、創設者らも大金持ちとなった。

公的研究機関に所属していたSulstonやその他の研究者たちにとって教訓は明確だった。BRCA遺伝子の発見に関するほぼ全てが公的援助を受けたものだった。Skolnickの貴重なモルモンの家系図でさえ1970年に開始した当時はその大部分は公的な資金によって援助されていた。しかし最後の最後で潤沢な資金を抱える私企業が独占的な権利を主張し、将来の研究を制限するだけでなく、高額な請求などによって人命を救う診断を阻害することとなった。この私企業による利益追求の事例は、誰かが基礎的レベルの遺伝子配列に対して独占を主張できないように、ヒトゲノムをできるだけ早くパブリックドメインとする必要があることを示した。

Venterは決して諦めたわけではなかった。そしてSulstonや彼の同僚が恐れていたことが起こってしまう。公的なコンソーシアムが研究を加速させる計画を立てていた1998年にVenterはCelera Genomicsという新たな会社を立ち上げた。ヒトゲノムを解析し、金銭的な利益のために利用すること。それがこの会社の唯一の目的だった。Celera Genomicsの起業は予告なく、ヒトゲノム計画の年次ミーティングの2日前の1998年5月10日に報道陣に向けたキャンペーンで発表された。それは競争の始まりを示すものだった。Celeraは解析機器を開発したApplied Biosystemsから3億ドルの支援を受けた本格的な競争相手だった。何より民営のベンチャーであるため、特定できた遺伝子には特許を申請し、その配列を公開することはない、あるいは制限がかかった状態で遅れて公開されることは明白だった。オープンなゲノムへの道のりは大きな脅威にさらされていた。

Venterと彼の同僚は、Newt Gingrichによって仕切られていた当時の国会において特に顕著だった、公的な取り組みへの支援に忌避的なアメリカの態度に巧みにつけ込んだ。VenterとCeleraはNew York Timesの独占記事として、そこの記者であるNicholas Wadeに公表前の情報を提供した。その記事では「もしこの新しい会社が先に目標を達成するのならば、アメリカ国立衛生研究所を通じてヒトゲノム計画を支援し続ける必要があるかどうかが国会で問われるかもしれない。」と書かれていた。これはCeleraが先に目標を達成することをほのめかすだけでなく、公的支援が不必要であり不当なものであることをも主張する二重の攻撃だった。その後の2年間も、民間企業によるプロジェクトが公的な機関によるプロジェクトに勝つという似たような主張が続いた。Sulstonは後に「Craigは科学ではなくビジネスに没頭していた。そしてビジネスで優先されるのは科学的な信ぴょう性ではなく株価と市場浸透なのだ。記者達に、より複雑な分析を報道してもらうことは困難に思えた。私たちが生き残るためには、公衆との駆け引きをしなければならないのだと急速にわかり始めていた。」と悔やみながら述べている。

資金提供者は希望をなくし、公的な研究への資金援助をやめてしまうのだろうか。あるいは(同じくらい悪いシナリオとして)提供額を十分に増やすことなく公的な研究が競争できない状況を作り出してしまうのだろうか。この極めて重要な局面でWellcome Trustが再び救いの手を差し伸べることとなる。Celeraの発表後の水曜日に、Sulstonは偶然にもWellcome Trustにさらなる資金提供をお願いするためのミーティングを予定していた。そこでSulstonは自由に利用可能なゲノムデータの重要性を述べ、その実現を懇願した後、彼は部屋の外で落ち着かない気持ちでWellcome Trustの判断を待っていた。返答は早かった。それまでの2倍の額の1億2000万ポンドの資金提供と、2001年までにSangerがゲノム解析の3分の1を引き受けることへの支持が全会一致で決定されたのだ。

Wellcomeのプログラムオフィサーは以下のように述べている:「Craig Venterの動きが実質的に私的所有化に向けてのものだと知事たちが気づいてからは、知事たちが手を引くリスクはなくなった。」ミーティングの日ともなると「皆がすでに耐えられなくなっていた。知事たちは『やるしかない』と言っていた」と。VenterとCeleraの攻撃的なアプローチは多くの思わぬ形で自分たちを不利にさせていた。

これは大きな信頼の証だった。SulstonとWellcome TrustのMichael Morganはヒトゲノム計画の協議会にこの良い知らせを伝えるためにすぐさまCold Spring Harbor行きの飛行機に乗った。

金曜日の朝SulstonとMorganはCold Springの満員の会場で、Wellcome Trustが資金援助の額を倍増させ、公的で無料でオープンなゲノムを目指すことを発表した。MorganはWellcome Trustの意欲を明確にするために、Wellcome Trustは基礎的なゲノムの特許化に反対の立場であり、そのような申請については裁判で闘う姿勢をを表明した。会場は歓声に包まれた。これが何を意味するかを皆が理解していた。ヒトゲノム計画は(月曜日に多くの人が恐れていたように)息絶えてはいなかったのだ。それどころか今まで以上に力でみなぎっていた。Wellcomeの期待に応える形でアメリカ国立衛生研究所は1999年に8160万ドルの追加の援助を行った。アメリカ合衆国エネルギー省も4000万ドルの資金援助を行った。Craig Venterの脅威が大西洋をまたいだコミュニティを一つにまとめあげたのだった。

その後の2年はあっという間だった。1999年の2月、ヒトゲノム計画のリーダーたちはHoustonに集まり、つい6ヶ月前まで想定していた完成日より1年早い2000年の中旬までにゲノムの論文草稿を作成することを決意した。各チームは最大限動いていた。Sangerは、1999年には1998年に比べて3倍の量を解析することを目標とした。これは過去7年間の解析量の合計を超えるものだった。

1999年12月2日、Nature紙に22番染色体全体の配列の解析についての論文が掲載された。ヒトゲノム計画の最初の大きな功績だった。この発表の内容には545個の新しい遺伝子(うち半数はそれまで知られていなかったもの)が含まれていた。22番染色体は心疾患や白血病を含む35を超える病気に関与しており、医学的にも非常に有益だった。情報をオープンに公開することでヒトゲノム計画は全てのゲノムが後に特許申請されないことを確かなものとし、公共部門、民間部門問わずライセンスの申請や訴訟のリスクを負うことなく自由に利用することを可能とした。

しかしCeleraが弱まる気配はなかった。1999年12月29日の電話会議において決戦が行われた。Celera側にはVenterとApplied BiosystemsのCEOであるTony Whiteと他3人の幹部が、公的機関側にはSulstonとWaterson、アメリカ国立衛生研究所の理事、ノーベル賞受賞者のHarold Varmusと彼の同僚であるFrancis Collinsがいた。ミーティング内で、この分野への貢献の表明にかかわらずCeleraにデータを公開する意思が無いことが明確となった。CeleraのTony Whiteは、いかなる共同データベースについても、民間の競争相手が(動きの激しいこの分野では永遠にも感じられる)3年から5年間は排除されることを望んだ。また草案が完成した段階で公的支援を受けているコンソーシアムが研究を止めることを望んでいた。これは、公的機関側が研究のほとんどを行った上でCeleraに道を譲り、共同データベース及びそれが持つ商業的、科学的可能性の全ての権限をCeleraに譲渡すことを意味していた。これはあまりにも挑戦的な要求で、公的機関側はきっぱりと断った。

ここまでくるともはや共同研究の希望は消え失せていた。しかし民間との共同研究を行うよう政治的な圧力を受けていたアメリカ国立衛生研究所のFrancis Collinsは、民間との共同研究に向けてできる限りのことを続けることになる。2000年の3月にCeleraが意味のある形での共同研究を行うことを拒否したというニュースがリークし、Washington Post紙はこのプロジェクトが「醜い争い (mud-wrestling match)」となってしまったと評した。

争いの中にも少しの光が存在した。議論を受けてBill ClintonとTony Blairは、少なくとも研究者には、ヒトゲノムの配列は自由に利用可能であるべきだとする共同声明を出した。競争は終わりを迎えていたが、これは公的でオープンなアプローチの貴重な確約であり、最後の最後に妥協されるリスクを防いだ。

いずれにせよ、選挙が迫っている中でClintonは国と民間の関係を傷つけかねないこの対立を解消したいと考えていた。貢献した量に不均等があったにもかかわらず、2000年の6月の発表ではCeleraとヒトゲノム計画との共同の功績であったと主張された。ホワイトハウスでは、結束を示すかのようにClintonの両側にVenterとFrancis Collinsが立っていた。

残る作業は2つの団体の研究成果を比較するだけだった。Celera側は、ヒトゲノム計画側が日々公表していたデータへフルでアクセス可能という恩恵を常に受けていた。一方でCeleraは(当初3ヶ月ごとに公表することを約束していたにもかかわらず)自分たちのデータを一切公表していなかった。ホワイトハウスの発表の時点で、それぞれヒトゲノムについての論文草稿が完成していると主張していた。2001年の2月のScience紙において共著論文も掲載される予定で、そこで初めてそれぞれの配列が公表されるはずだった。しかし発表前に、Celeraがデータを公的なデータベースに登録しないことが判明し議論が巻き起こった。厳密な審査と学術コミュニティでの再利用を可能にするために、データを公的なデータベースに登録することはこのようなジャーナルで論文を掲載する際の標準的な条件だ。激しい批判にもかかわらずScience紙は規則を曲げることに合意したのだった。するとすぐにヒトゲノム計画のメンバーはScience紙での出版を撤回し、代わりにNature紙で出版することを全会一致で決定した。

そしてようやく、正式に論文が公開される数日前の2001年2月12日の月曜日に両者は互いの論文を交換した。ヒトゲノム計画のチームが初めてCeleraの研究結果を見ることができた瞬間だった。そしてその結果は衝撃的なものだった。John Sulstonはこう記している:「彼らが私たちのデータ全てにアクセス可能であり、それらを利用していることを知っていたため、彼らの配列の方がより良いものであろうと予想していた。しかし彼らが公表しようとしていた配列は、大いに依存していた、公開された配列と大して差がなかった。」と。またSulstonは、ヒトゲノム計画無しではCeleraはゲノムのドラフトを作ることが全くできなかっただろうし、彼らが「完全な解析を成し遂げられた確率は非常に低いだろう」と述べている。

分析によりこれはさらに裏付けられた。1年後、世界を牽引する専門家たちは、3つの異なる方法でCeleraは公的なデータに頼っていたと記した。そして、「公的なデータを用いていたにもかかわらず、Celeraが全ゲノムの解読と呼ぶものはどのような評価基準に基づいても完全な失敗であり、ゲノムの20%が完全に欠落、または116,000の整理されていない実用性のない細かい断片として存在していた。」と述べた。

次のような俗説がある。1つ目は、Celeraの解析は精度は劣るものの費用対効果の高いものであったという説。2つ目は、Celeraの存在により起こった競争は「のんびり」した科学者のペースを上げ、結果として科学にとって有益であった、とする説。しかしどちらの主張も正しくない。後の分析によりCeleraが行おうとしていた費用削減は実現したことがわかっており、結果が重複していたことは費用が必要以上にかかったことを意味する。ヒトゲノム計画側としては、競争により最適なペースよりも早く物事を進める必要性が生じ、結果として総コストが増える深刻な非効率を招いた。ヒトゲノム計画のチームが質の劣る「配列のドラフト」へと方向性をシフトさせる必要が出てきたとき、質の高い解析結果の完成については延期せざるを得なかった。また、一度プロジェクトが「完了」したと告知されてしまうと支援が離れ、将来的な目標を成し遂げられない状況に陥るリスクさえあった。

この競争がどれだけの影響を与えたかを正確に捉えることはできない。しかしヒトゲノム計画側がCelera側と同等の費用でもって遥かに質の高い(そして唯一と言って良い)解析結果を生み出したことは確かだ。そして何より大切なのは、その解析結果が、個人、学術、企業に関わらず全ての研究者に対して公的に提供されたということだ。

ヒトゲノムの発見と解析の物語は徹頭徹尾オープンネスと公的支援に関わるものだった。オープンなゲノムは人類にとって最大の功績の一つであり、将来の研究とイノベーションの土台となっている。しかし、そうならなかった可能性もあったのだ。

John Sulstonの言葉で締めくくるとしよう:「情報を解読するには長い時間と、参加している人全員の頭脳が必要だ。そしてそれは、生物学コミュニティ全体にとってその解析の結果が利用可能である必要があることを意味している。. . . 後にCelera Genomicsとなる民間企業が設立された時、. . . 生物学の未来が脅威にさらされた。たった一つの企業が人類についての最も根本的な情報へのアクセスについて独占的な権限を手に入れようとしていたのだ。しかしその情報は人類全体の財産である、あるいはあるべきものなのだ」。彼はヒトゲノム計画を支援した公共団体が、Celeraに分野を手放さず、世界中にいる科学者が配列にアクセスできるようにし、そしてさらなる発見に繋げられるように手配したことに敬意を表した。しかしSulstonが書いたように、「その自由を失いかけた」ことを記憶にとどめておくべきだろう。